2012-10-01から1ヶ月間の記事一覧

十月三十一日

ひとりづつ淋しがらせる秋の暮 (田舎樽) 江戸つ子の一人旅、中仙道の山路、秋でまことに紅葉シーズン。すすめられて乗つた馬の馬方が、きたない手拭で頬冠りしているので新しい手拭を呉れてやつた。風流の道を知らない癖に、知つた振りをして江戸の宗匠だ…

十月三十日

御湯花に薪のいらぬ下の諏訪 (柳多留 三七) 諏訪神社下社の祭には土地に温泉の湯があるから御湯花の火は焚かなくても済むの意。 御湯花は湯立とも言い、神社の大祭の際に社前に大釜をすえて巫女が笹を手に持つて釜の熱湯をひたしてふりそそぐものである。 …

十月二十九日

あゝ景色伏屋の里の秋の暮 (俳諧ケイ 二二) 美濃国から上坂峠を越えて下りきつた一帯の地を園原という。 園原や土賊のうへにおく露は みがける玉のここ地こそすれ 曽原紀行 下伊那郡阿智村知里。延喜式の官道に当り古くは「伏屋の里」とも呼ばれ、また箒木…

十月二十八日

売付ける胆は山家の猿の智恵 (柳多留 一四六) 江戸時代のユーモア作家十返舎一九の木曽道中記のなかに、街道で熊の皮や熊の胆をすすめるところが書かれている。 敷物になつたり、胃の薬に用いられるから売込みにさぞ熱心だつたことだろう。 熊をとつたとき…

十月二十七日

平家物語大めし喰いが書き (柳多留 一九) 全十二巻。すでにいうまでもない軍記物の最大傑作、平家物語。この作者についてはいろいろの説があるが、その中のひとつ。兼好法師の「徒然草」二百二十六段に「後鳥羽天皇の御時、信濃の前司行長が、学問にすぐれ…

十月二十六日

栗の木の下へ毛ぬきを持つて来る (柳多留 二〇) ほんとの子とままつ子があつた。母は二人に栗拾いに行つて来いといつて、ままつ子に穴のあいた袋、ほんとの子には新しいのを持たせた。ままつ子は袋へ入れるけれど、穴があいているのでみな減つてしまつた。…

十月二十五日

栗は〱とばかり秋の木曽の山 (柳多留 一五八) 落語の「いが栗」というのはこうだ。 とある辻堂の縁に痩せ衰えたイガ栗頭の恐ろしい顔をした坊主がいたので旅人が道を聞いたが返事をしない。しかたがないので老母と若い娘の家に宿を乞うたところ、この娘が…

十月二十四日

足抜で村子が拾ふ鬨の栗 (新編柳多留) 「君の故郷はどこだ」「木曽だよ」「さぞ大きい栗があるだろうな」「もちろん、これほどある」といつて両手をひろげて見せる。「バカな、そんなのがあるものか」「フフンこれほどある」と、手をだんだん寄せる。「ウ…

十月二十三日

たね錢が関東がたにのこるなり (柳多留 十五) きようは電信電話記念日。わが国で最初の電信線を布設する工事が東京―横浜間に着工されたのが明治二年(一八六九)の十月二十三日である。 日本電信発症記念公園は埴科郡松代町によつて嘉永二年(一八四九)に…

十月二十二日

もう許せ〱に飯綱笑ひ出し (俳諧五万才) 飯縄の法というものがある。狐を使う一種の妖怪で、古の茶耆尼天の法を行つたものと言われる。 管狐という鼠ほどの小さい狐雌雄を飼い馴らしこれを使役して人力の及ばない不思議なわざを披露した。 この修験は長野…

十月二十一日

薄雲はみちのくと名をかへたがり (川傍柳 一) 仙台伊達侯に落籍された高尾は、島田重三郎という愛人があるためになかなか靡こうともしなかつた。綱宗は怒つて三股川の船中で吊し斬にしたといわれるが、その後、薄雲を根引きして晴れやらぬ胸をやつと晴らし…

十月二十日

信州のゆき大阪で水になり (柳多留 六四) きようから新聞週間が始まる。 新聞の起源は瓦版、瓦に原稿を貼りつけて彫刻した板行。本版よりも早く簡便で、不時の事変を印刷し多くの人に報道するに用いられた。 大坂落城の模様を描いたものが、瓦版の始まりと…

十月十九日

上田の小袖下じめは糸真田 (柳多留 一一六) 上田の小袖は上田縞を利かし、糸真田は真田紐のことだから、上田・真田との読み合わせであろう。 関ケ原合戦で西軍についた真田昌幸・幸村は処刑をまぬがれ、紀州高野山に近い九度山におちついた。ここで十余年…

十月十八日

三代で六文あます信濃もの (柳多留 一五一) きのうに引続いて貯蓄の話である。減らす話ではないからご安心ください。 三代かかつてたつた六文では貯蓄のヒケツにならないではないか、とムキになる人も多かろう。三代とは真田三代のこと。幸隆・昌幸・幸村…

十月十七日

銭つかひ上手にしたは安房守 (柳多留 三五) きようは貯蓄の日である。まず貯蓄の第一歩は無駄使いをしないこと。金使いのうまいベテランは安房守だ。 天正十一年(一五八三)上田城を築いた人がこの安房守・真田昌幸である。 昌幸には信之と幸村の二人の子…

十月十六日

岩茸取り役の行者も知らぬ道 (柳多留 一) 小県郡ち諏訪郡の間にある大門峠。武田信玄が甲州から川中島へ出陣するときいつもこの峠を越したといわれ行者越と呼ばれる。 この峠の東方四キロほど下つたところに仏岩と称する岩石がある。昔、この村の人たちが…

十月十五日

三粒ほど餅へ手品の奇応丸 (柳多留 一六七) 奇応丸は子供の病気のときに用いられるがいやがつてなかなか飲まないと、親は餅のなかにそつとしのばせて子供が知らないまに餅と一しよに飲み込ませるのである。これは親ごころだ。 木曽の福島関所に代々勤めて…

十月十四日

家に年寄り子供には奇応丸 (出所不明) きようは鉄道記念日。 西筑摩郡福島町の馬市は江戸時代から続く日本三大馬市のひとつだが、鉄道のなかつた頃はここに集まるのにさぞかし難儀を極めたことだろう。 ここで取引きされた木曽馬を売渡すときにその証拠と…

十月十三日

権兵衛が種を蒔いたは五万石 (柳多留 一四三) 仙石権兵衛が小諸五万石に封ぜられたのは豊臣秀吉に仕えて勲功をたてたからだつたが、そのひとつに大盗石川五右衛門を捕えた逸話がある。 その石川五右衛門は三条河原で釜ゆでにされるとき、大胆不敵にも辞世…

十月十二日

棧道を杣に尋ねる木曽の旅 (飛騨版狂句合) 晩秋の木曽路はいい。あくまで澄んで、冷たく川の流れは旅人の目をいやしている。 棧や命をからむ蔦かつら 芭蕉 福島から上松へ行く途中に釣橋が架けられ「木曽の棧」といわれている。崖の上を中央西線が走りその…

十月十一日

佐殿も全体佐々木贔屓なり (万句合 明和七義五) 了知上人といつてもピンと来ないが、佐々木四郎高綱といえば、あの宇治川の先陣に天晴れ名を高めた武将を思い出すだろう。 松本市島立区北栗に正行寺趾がある。このお寺の開祖が実は了知上人だ。源平の戦が…

十月十日

耳と耳目がねをかけるしかけ也 (田舎樽) きようは眼の愛護デー。 この頃はどうも新聞が読みにくい、活字が小さいせいだろうとタカをくくつていたら、老眼の時期が来たことで、感嘆久しうする人もいる。 読書のシーズン。受験勉強で知らず知らずに視力が落…

十月九日

乞食の子しやうことなしに大カクなり (田舎樽) 大カクは「でかく」とよむ。大きいことである。あれで育つことだろうかと心配するほどでなく、乞食の子はいつのまにか大きくなつているくらいの意。 でかいは方言でなく訛語なのであろうが、松本で江戸時代に…

十月八日

送り膳の仕方小笠原にもれ (桜鯛 二) 秋は結婚シーズン。披露宴によばれていながら出られないままに送り膳を届けて貰つた人もあるかも知れない。 送り膳というのは、人を招待して御馳走を折角出したのに何かの都合で来られなかつた場合、その人のうちへお…

十月七日

関守も夜はふく島の鹿の宿 (俳諧ケイ 二三) 関所の役人も夜になると、昼間の旅人の取調べが一段落し、ひつそり猟師が鹿を呼び集めるあの鹿笛を吹いてさびしさをまぎらかすといつた句。「ふく」は「吹く」と「福島関所」に掛けている。 木曽谷の福島関所は…

十月六日

更級の蕎麦も久しい願ひにて (武玉川 一〇) 信州信濃の 新ソバよりも わたしや あなたの そばがよい この俗謡と共に、昔から蕎麦といえば、すぐに信州を連想するほどに世にもてはやされている。 交通の不便であつた頃、そのなかでも更級地方でとれるものが…

十月五日

蕎麦を刈る賤(しず)に田毎の道を開き (柳多留 一二八) 下高井郡出身の呉服商の布屋清助が江戸へ出たのはおよそ三百年前。領主保科公にすすめられて麻布坂に蕎麦屋を創業。信州更級の「更」と保科公の「科」をとつて、屋号を“更科”。 初代布屋太兵衛を名…

十月四日

信濃路は雪ほど咲きし蕎麦の花 (貝の浜) 一茶が「信濃では月と仏とおらがそば」と詠んで、大いにお国自慢をしてくれたが、信州の蕎麦は昔から有名。よそからのお客には何よりのご馳走である。 二、三カ月の短い期間で熟成するから、立秋の前後にまいて、十…

十月三日

木曽殿は勝関牛は皆火傷 (新編柳多留 三八) 寿永二年(一一八三)平維盛を将とする平家の大軍が京都から押し寄せたとき、木曽義仲は北陸の倶利伽羅谷に於て牛の角に松明を縛りつけての奇襲作戦で見事に撃破した。 松明といえば長野県東筑摩郡本郷村の浅間…

十月二日

関守の折ふし通ふ軽井沢 (柳多留 六) 東海道の箱根とならんで、碓氷峠は中仙道一の場所。信州北佐久郡と上州碓氷郡とにまたがつている。 国道十八号線が出来てから交通がはげしくなつたが、碓氷峠の旧道は、上州側の坂本宿(信越線横川駅下車)から、この…