2012-09-01から1ヶ月間の記事一覧

九月三十日

あすは旦那の稲刈と上田勢 (柳多留 一二六) みのりの秋、農村は稲刈りで猫の手も借りたいほどのいそがしさ。 俗謡に 豊年じや 万作じや あすは旦那の稲刈で こうお膳立てが出来ればヘイチヤラな句のようでいて、さて意味はと聞かれるとわからぬ。慶年五年…

九月二十九日

なれも妻恋ふか碓氷の峰の鹿 (柳の丈競) むかし軽井沢に奇特な人がいて、道行く人々のため碓氷峠まであちこち道しるべを作つて立てて置いた。この人はその道しるべを作る表面にそれぞれ必要な文字を刻み、そのかたわら自分の家の紋所である源氏車の形をし…

九月二十八日

おぢさまといふなと小式部をしかり (柳多留 一六) 和泉式部といえば平安朝時代の女流歌人。初め泉守橘道貞に嫁して小式部内侍を生み、道貞の死後、為尊・敦道両親王の寵を蒙り、のち、更に丹後守藤原保昌の妻となつた。しかし保昌と不和を生じてまた離別し…

九月二十七日

忠信は胡麻塩にして取つて投げ (柳多留拾遺 八) 源義経が吉野山に入つたとき、法師武者に謀られて窮地に陥り、佐藤忠信は自ら義経の甲を着し、偽つて源判官といつて討死したように見せ掛け、義経をのがれしめた。 のち京都に至り、室町にかくれているうち…

九月二十六日

日本の常香磐は浅間山 (嘉永俳諧ケイ) 雲はれぬ浅間の山のあさましや 人のこころをみてこそやまめ 古今集 海抜二五四二メートル、わが国最高の三重式活火山だ。関東信越一帯を一望のもとに見おろすことが出来る。 貝原益軒の『木曽路之記』に「軽井沢、沓…

九月二十五日

碓氷峠はにくい奴だと袴云ひ (万句合 天明元・智三) 信州に入るにはどうしても峠を越えなければならない。アプト式で鉄道が敷かれて、それでも信越線の横川から軽井沢までたつた一一・二キロのところを一時間もかかつた。この碓氷峠が昔から一番名高い。(…

九月二十四日

鉞(まさかり)を木曽の山家の聟引出 (柳多留 七三) 木曽の山奥にたいそう力自慢のキコリがいる。江戸へ出て宿の主人に「国には私ほどの力持ちはいないよ。木を倒すには斧はいらない。だから私が山へ行くと木が枝をたれる」といつて主人を驚かせる。翌日主…

九月二十三日

名僧は蜜柑名医は葡萄なり (柳多留 九八) 医学のかたわら本草学にくわしく、甲斐に長らくいた永田徳本は葡萄の良種であることを知つて、接木挿木棚掛けなどの培養分栽の法を考案して土地の者に指導したが、これが今の甲州ブドウの始めとなつたもので、その…

九月二十二日

撫子を見る刈萱も露を持ち (和国追福会) 自分の子供でありながら親として名乗ることの出来ないつらさはどんなだろう。高野山にいると聞いてはるばるやつて来たいとしい十三才になつたわが子の石童丸に、尋ねる人は逝くなつたと打ち明ける等阿上人の心情は…

九月二十一日

野に虫も齢振る頃に駒迎ひ (新編柳多留 一四) きようから動物愛護週間が始る。蓼科山の北、千曲川と鹿曲川にかこまれる望月の牧は昔から馬の産地として聞えが高かつた。 貞観七年(八六五)十二月の制令以来、信濃の国の牧(朝廷直属の牧場)の総称であつ…

九月二十日

死水を取つたは今井ばかりなり (柳多留拾遺五) 松本市今井区下今井南耕地には今井兼平の屋敷跡が塹村と呼ばれて残り、上今井中村の宝輪寺は兼平の開基といわれ、その橘の紋を寺紋としている。また上今井堂村の兼平神社は木曽義仲の遠孫家村が足利尊氏の朱…

九月十九日

音に聞く秋は山中鹿之助 (俳諧むつの花) 南佐久郡南相木村は山中鹿之助の生れ在所だ。父親の相木森之助が甲斐の武田信玄に長く止め置かれ、その生死のほどをあやぶまれたとき、美人で胆力のすわつた気丈夫な母親の更科は塩尻峠でその様子をうかがい、甲州…

九月十八日

どのまつりでも深川のおやぢ出る (柳多留 一九) 江戸時代「親和の幟」といえば江戸のあちこちの儀礼になくてはならないほど人気があつた。自ら得意とする草書篆書の散らし書きなどを浴衣地の模様に染出した「親和染」というものが、当時の豪放な気風のムー…

九月十七日

信濃路は武勇も月も影があり (柳多留 六〇) 武勇にも、月にも、影があるというのは何のことだろう。 武勇は七人真田の伝説の影武者のこと、月はいわずと知れた田毎の月の影だ。 大阪夏の陣に、真田幸村の身代わりとなつてしばしば徳川方を悩ませた六人は、…

九月十六日

上田一城六もんはむかしの値 (柳多留一一〇) 「月見の宴」で大いにジヤーナリズムを騒がせた松本城は、明治五年あやうく払い下げ取りこわしの運命にさらされたが、有志の盡力でやつと買い戻したといういわれを持つている。 それと同じように上田城もそれと…

九月十五日

月を眺めて御座れよと姨を捨て (柳多留 四〇) 昔、ある男が妻にすすめられて、親代わりに養つていた姨を山に捨てたが、悲しみにたえられず再び連れ帰つた。 きよう十五日の「としよりの日」にふさわしい姨捨山の伝説である。 わが心なぐさめかねつさらしな…

九月十四日

信濃から来て名月を一つ見る (柳多留 一九) 小説や映画で話題をまいた深沢七郎の「楢山節考」は信州姨捨山の伝説にからませているが、それほどに姨捨山の説話文学の含みは濃い。それといつしよに田毎の月も有名である。水田の一枚一枚にうつる月影に観月の…

九月十三日

風吹くと田毎の月は皺になり (柳多留 五八) 月世界の旅行の足がかりに、衛星船がしばしば打上げられているニユースを耳にしながら、秋の月は殊更に美しい。 名所といえば須磨明石や石山寺とともに思い出されるのは姨捨山の田毎の月である。姨捨山は冠着山…

九月十二日

戦はぬ日にも片眼で軍書見る (柳多留一〇〇) 小男のうえに片目でチンバだが、世に聞えた知将といえば武田信玄の謀臣、山本勘助がまずあげられる。敵軍に一度もその作戦をさとられることがなかつたが、永禄四年(一五六一)九月の川中島合戦のときに、上杉…

九月十一日

川中の団扇両將勝負なし (ことたま柳) 篠ノ井駅からバスで十分、八幡原に達する。ここは上杉謙信と武田信玄両雄一騎打ちの場所といわれ「三太刀七太刀之跡」という碑がある。虚々実々、両軍相ゆずらず、交戦実に五たび、その最も激戦だつたのがは四回目の…

九月十日

川中島はしんけんの勝負なり (柳多留 七九) 昔憶えば千曲の水よ車がかりの音もする 篠ノ井音頭にある。 武田信玄は啄木(きつつき)戦法で敵を包囲したと思つたら、上杉謙信は車がかりの陣備えで不意に川中島に戦闘体形を整えた。時に永禄四年(一五六一)…

九月九日

天白は二人とも白(もう)す御社 (柳多留 五六) 江戸時代、松本の天白神社に奉納された額にある句。天白の二字を「二人白」と分解したもので、誉田別名には八幡さま、倉稲魂命にはお稲荷さまと双方が祭られている。 三河国岡崎近在に天白道場という妙見崇…

九月八日

月雪の国へ花から十七年 (柳多留 四四) 天明の頃、一世を風靡した俳人大島蓼太の出生地については諸説がある。江戸、木曽、松代、i網伊那郡飯島町本郷大島、下伊那郡松川町大島である。しぼられたところでは伊那説が正しいようだ。 幼少にして父に伴われて…

九月七日

三日見ぬ間に花の咲く仲の町 (柳多留 四四) 天明の頃、一世を風靡した俳人大島蓼太の出生地については諸説がある。江戸、木曽、松代、上伊那郡飯島町本郷字大島、下伊那郡松川町大島である。しぼられたところで伊那説が正しいようだ。 幼少にして父に伴わ…

九月六日

木曽殿はいゝ陣太鼓もちたまひ (柳多留 四六) 西筑摩郡日義村の徳音寺には木曽義仲、中原兼遠、巴御前の墓がある。義仲の菩提寺だが、ここの宝物陳列室に義仲の守り本尊と伝えられるカブト観音、巴御前愛用の経本など二十数点がある。徳音寺の鐘声は木曽八…

九月五日

惡いことよしなと巴首をぬき (柳多留拾遺 五) 寿永三年(一一八四)正月、木曽義仲は戦利あらず三条河原に敗れて従う者僅かに十三騎。更に主従七騎となつたときも巴御前は残つて奮闘した。 粟津の手前の関寺では、追手に向つて来た内田三郎家吉という六十…

九月四日

信玄の頭にやどる諏訪の神 (柳多留 四一) 諏訪大社は信濃国の一の宮といわれ、上下両社に分かれている。上社は建御名方命をまつり、諏訪市中洲に鎮座し、下社は同妃八坂刀売命で下諏訪町にある。農業神として信仰をあつめ、また古来武将の崇敬が厚かつた。…

九月三日

法の灯も千代の光の善光寺 (俳諧 一枝筌) 善光寺和讃を誦えながらカーンカーンと鉦を叩いて善光寺詣りの人が通る。鳶の藤三郎は空の上からこれを見ておらも「ピーヒヨロピーヒヨロ唄つてばかりではつまらない」いそこで白い着物、笠、脚絆、鉦といういつぱ…

九月二日

どぶりチウぴかり難波の鮒は逃げ (新編柳多留一五) 信州信濃の善光寺――この名高いお寺は毎年三〇〇万人の善男善女でにぎわう。だから長野駅の待合室は四季を通じて団体客でいつぱい。 長野は信州ではいちばん古く開けた町。善光寺如来の門前として、すでに…

九月一日

風鈴も銭がなくてはならぬなり (田舎樽) 夏の風物詩になくてはならぬ風鈴。趣向をこらしてつりしのぶにあしらつた風鈴。ちよいと水をくれてやると、どこからともなく吹く風にチリンチリンと鳴つて、さしもの暑さもひととき忘れる。 風鈴の下に一文世をのが…