2012-07-01から1ヶ月間の記事一覧

七月三十一日

戻り馬茶やのけぶりとなりにける (田舎樽) 客を乗せて用が済んだ帰り道、戻り馬でぶらりぶらりと行く姿が、茶屋からあがる煙と一しよに見えなくなつたというもの。昔の街道のおもかげが目に浮かぶようだ。 馬といえば俳人芭蕉の貞享五年(一六八八)の著「…

七月三十日

お互ひに御無沙汰をする諏訪の夏 (柳多留 五四) 小学校に温泉があり、留置場にも引かれていると聞いてはもつたいないほどだ。諏訪市は諏訪温泉市といつた方がよいくらい。この句、諏訪湖に氷がないと交通不便という意。冬はスケートで有名だつたが、いまは…

七月二十九日

美しい流人大飯喰ひに成り (柳多留 四) 夏の涼しい信州で、都会の学生に勉強してもらおうと県下各地に学生村があり、これがなかなか好評のようだ。学生村の“発祥地”は下伊那郡阿南町の新野高原。新野地区の老人クラブが会員の部屋を開放し安い費用で都会の…

七月二十八日

針箱の謎湯女と解く下の諏訪 (柳多留 七二) むかし宿場として繁盛をきわめたところには旅情を慰める脂粉のおんなが艷を競つた。 下諏訪町は湯の街であり、甲州街道と中仙道の交叉点にあつて旅人の往還もはげしく、いきおいサービスガールが妖しい流し目を…

七月二十七日

大飯の国に飯の田飯の山 (柳多留一四三) 飯田は松代と並んで「信州の小京都」といわれる落ち着いた城下町であつた。南のはしで気温温暖、人情こまやか、ここを離任するとき去り難い想いにかられる人は多い。一面気性の強いのが伊那谷の肌合いである。 幕末…

七月二十六日

筧の水も耳につく木曽の旅 (柳多留一三六) 川の流れの音は尚更のこと筧の水も旅先では耳につく。木曽路なればこそあざやかだ。 木曽谷の夏祭のうちでも奇祭として知られているのは西筑摩郡福島町水無神社の豪快な“みこしまくり”である。 その昔、宗助、幸…

七月二十五日

うち解けておとづれのない諏訪の夏 (柳多留 八四) 諏訪の宿の楽しみは情緒豊かな温泉と、湖でとれるワカサギ、シジミ、コイ、フナなどの淡水魚や貝類が郷土食として舌づつみを打たせることにある。静かな山の湖は海に恵まれない信州の美しい山々をいつそう…

七月二十四日

ぼたもちをこわ〲上戸一つ食ひ (柳多留 一六) 北佐久地方の民話。 明神さまの縁の下に寝ていると、山の神さまや八幡さまがやつて来て、いろ〱打ち合わせてゆくのが夢うつつに聞える。「いま子供が生れたが、寿命は七つで可哀相だ」耳を疑う不吉な話である…

七月二十三日

四会目を四くらと言ふは軽井沢 (柳多留拾遺八) 行楽客がはいつてくると低俗化するので、しぶい顔をしているのが軽井沢人種。ひところは折目正しい人たちが、ひつそりと軽井沢特有のたたずまいの中で安住していた。 高級別荘地として夏の間は政治と経済がそ…

七月二十二日

軽井沢狐の鳴かぬ日はあれど (柳多留 五六) 避暑地軽井沢の開祖イギリス人シヨー師は軽井沢を「屋根のない病院」と言つている。浅間山の噴煙を望む冷涼な大気、強い紫外線きれいな水、カラ松や白カバが多く、その間に点在する別荘が新鮮な風景として目に映…

七月二十一日

大津絵の生きてはたらく軽井沢 (柳多留一二・六〇) 昭和二十六年の国際文化観光都市建設法で軽井沢は「世界においてまれにみる高原美を存し、すぐれた保健地であり、国際親善に貢献した歴史的な実績を持つ」と激賞されている。全国に避暑地は多いが、軽井…

七月二十日

かるゐ沢膳の半ばへすすめに来 (柳多留拾遺 二) 夏の軽井沢、気温は東京に比べ五度は低い信越線で上野をたつと碓氷峠を越えて間もなく軽井沢、標高九四〇メートル。避暑地に向く条件は涼しさに加えてその環境にもある。質朴で清潔だ。軽井沢を避暑地として…

七月十九日

塩尻で辛き目にあふ諏訪の勢 (新編柳多留 二六) 下諏訪の宿から中仙道を諏訪湖に沿って西にゆくと間もなく塩尻峠。 天文十七年(一五四八)七月十九日、この塩尻峠に於て諏訪・小笠原の信州勢と、武田晴信の甲州勢とが合戦、武運拙く信州勢は完敗、小笠原…

七月十八日

狐火の折々野路をほころばし (柳多留 二) 木曽街道洗馬から塩尻、村井にかけての雑草が茂い繁つた広い原、それは桔梗ケ原である。昔、玄蕃丞という狐が棲んでいて、これが狐のボス、たくさんの子分があつた。そのうちでも赤木山の新左衛門、田川べりのおき…

七月十七日

三代はどれも一とく才智なり (柳多留 四八) 徳川の大軍を食止めて以来大いに名をあげた上田城は天正十一年(一五八三)真田昌幸が築いたものといわれる。そのさい地固めに踊つたのが「上田獅子」のはじまり。 先に舞う禰祇(ねぎ)一人に雌雄三匹の獅子が…

七月十六日

名所にもならで信濃の夏の雪 (田舎樽) 信濃の国の天井、日本アルプスには名所にもならぬ雪が夏になつても残つているよ、といつた意味。 確かに昔は名所にもならない雪を土地の人たちだけがながめあげていたのだろう。ところがいまはどうだろう。信濃の山と…

七月十五日

祭の子わらつて通る内のまへ (柳多留 一七) 夏祭がさかんである。家の前を通るとき、それとなくにこにこしながら、祭を意識した自分の姿を見せたがる。 大人だつてそんな気持になるのかも知れない。色とりどりの反物が目もまばゆく、町中を練り歩く連中の…

七月十四日

山吹は一重巴は八重に咲き (しげり柳) 木曽義仲の愛人といえば巴御前、山吹姫がある。共に京都まで伴れ立つたが、山吹は病いのため京都にとどまり、巴は男まさりのほまれも高くいつも合戦に加わつていた。 巴は普通の女より少し上背で、肉づきはいいがこれ…

七月十三日

木曽を抱きしめ緋緘をねだるなり (柳多留 二二) 西筑摩郡日義村宮ノ越は木曽義仲の揺籃の地であり、挙兵の地でもある。義仲を養育した中原兼遠の屋敷の跡。根井幸親、楯親忠と共に木曽四天王と言われた樋口兼光と今井兼平兄弟の屋敷の跡もある。また巴ケ渕…

七月十二日

兼平の手本は滅多習はれず (万句合明和元・義五) ふたり連れ立つて馬場へゆき「馬に乗つて見ようではないか」「コリャおもしろかろうが、一度も乗つた事がない」「ナニ静かに乗つて見やれ」と無理に乗せたところ、馬は一散に駆け出した。「アレ〱どうもな…

七月十一日

黒石トの石に蛙の行者越 (新編柳樽 二) 和田へぬけるか湯川へ出るか 嶺にかかれば雨が降る 長久保甚句でうたわれる。武田信玄は甲州から川中島へ出陣するときには常に大門峠を越えていつた。東海道の塩は裏富士の甲州からこの峠を越えて北信濃に運ばれたと…

七月十日

聞き慣れぬ琵琶に驚く関の駒 (新編柳多留一三) どこにも珍しい行事はあるものだが、榊祭というのが北佐久郡望月町本牧の望月の里にある。 この地に城のあつた頃、陳情に農民たちが松明をかざして城下に押し寄せた。土地の庄屋が調停してことなきを得たが、…

七月九日

日本武碓氷峠でしたく成り (明六・亀2) 日本武尊は上総の走水の海で妃の弟橘媛を失つた。碓氷峠で遥か東国を望みながら「吾妻はや」と呼んで悲しんだ。ドランクに駆られたのだろう。 「川柳独特の露悪的な見方だが、太古のことだけにいやな気はしない」と…

七月八日

是はと誉めて飯綱の気味わるし (俳諧ケイ一八) 飯繩の法は狐を使う一種の妖術。 鎌倉時代の初め天福元年(一二三三)水内の荻野城主伊藤忠綱が長野市芋井の飯繩山に上つて苦修練行して神力を得たのがその起源とされている。その後、子孫相継いで法力を伝え…

七月七日

池月は第一番に身震いし (万句合明和元・義四) 落語に「佐々木政談」がある。町奉行に新任した佐々木信濃守が民情視察に出掛けると白洲ごつこをしている子供たちに出会う。その裁きかたがあまりにうまいので親子ともども出頭させる。子供は臆せず弁舌もた…

七月六日

木曽泊り付け廻しつ水の音 (柳のいとぐち) 日本エツセイストクラブ賞を受賞した洋画家曽宮一念の随筆に「木曽一泊」がある。このなかに「家の美しさと共に水の多いこともうれしかつた」とあり、富士では水を大切にするのに、御岳では水が豊富なので、それ…

七月五日

木曽川の水は巴に渦を巻き (柳多留 一三六) 風雲児木曽義仲の生涯は華やかで、そして短かつた。智承四年(一一八〇)従兄の源頼朝が伊豆で平家追討の兵をあげると、これに呼応し木曽に軍勢を整えて大いに奮い、旭将軍木曽義仲の盛名は天下にあまねいていた…

七月四日

千曲川左右の岸にたけと杉 (しげり柳) 「信濃なるちくまの河のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ」と万葉集にある。千曲川は信濃川の支流で、甲武信ケ岳に源を発し、佐久平および小県盆地を北流して善光寺平に出で、川中島で犀川に合する。越後の国境まで…

七月三日

犀の飛ぶ下石の間を人の波 (柳多留 一四八) 犀川は源を駒ケ岳に発する奈良井川と梓川の合流した川だ。だんだん北流して穂高川、高瀬川を呑み、東北に千曲川を合して信濃川となる。この川の流域は南北安曇、東筑摩郡の三郡にわたり一大平野をなし松本平と呼…

七月二日

ほたるがり下女殿(しんがり)の無分別 (田舎樽) 山は王城 流れは天地 間がほたるの 松尾峡 これは昭和二十一年に上伊那郡辰野町商工会が募集して入選した「ほたる小唄」のひとつだ。むかし諏訪湖から流れる天龍川に沿い岡谷市川岸から辰野町平出に繁殖し…