七月二十七日

   大飯の国に飯の田飯の山

         (柳多留一四三)




 飯田は松代と並んで「信州の小京都」といわれる落ち着いた城下町であつた。南のはしで気温温暖、人情こまやか、ここを離任するとき去り難い想いにかられる人は多い。一面気性の強いのが伊那谷の肌合いである。
 幕末の京都で男装と女装を使い分けして、白刃をくぐり公卿や勤皇の志士と交わつた松尾多勢子はここの出身。(女参事)(岩倉の周旋婆)といわれた女傑。
   学者春台 女流で多勢子
     烈女お不二も 伊那の人
 そのお不二、山口藤は飯田藩士の山口弾二の娘、父の奥勤めの関係から藩主堀家に仕えたが、愛妾若山の専横に詰りこれを刺した。お不二は捕えられ
   信濃なる山路の雪ともろともに
      春をも待たで消ゆる今日かな
の辞世を残し、刑場の露と消えた。享年二十二才。処刑されるときメンスであつたので、しばらくの猶予を乞うたが許されず、死後の取り乱しを恥じ、紅絹の袋にモグサを用意して死にのぞんだという。