2012-01-01から1年間の記事一覧

十二月三十一日

大晦日よんどころなくとしをとり (田舎樽) 一年の最後の日である。明日は新しい年を迎える。人生の区切りに似た何かしら感激と惜別を覚える押しつまつた日である。 よんどころなく年を取るという感懐は、川柳人らしい皮肉さを隠せないが、一つまた馬齢を加…

十二月三十日

信濃ほどあつて山にも田にも飯 (新編柳樽) 飯山市は、もと本多氏二万石の城下町。千曲川流れ越後長岡に通じる街道に当り、信州最北の都市。冬期三メートル近い雪が降りそれも湿つた重い雪である。 飯山スキー場は明治四十五年高田聯隊区のスキー隊が滑走を…

十二月二十九日

大食の国に飯山飯田なり (柳多留) 飯山市は北信、飯田は南信。 日本の国鉄線の中で最も積雪が多く、年間千四百万円もの除雪費をかけている長野県の北端の飯山。 信州で一番早く春のおとずれを知るところといえば南寄りの飯田。この飯田から特に多く信濃者…

十二月二十八日

飯山があつても江戸へ喰ひに出る (柳多留 三三) 駿河には過ぎたるものが二つある 富士のお山と原の白隠 霊峰富士山と静岡県駿東郡原町の白隠禅師のこと。白隠はここで生まれ、八四才で原町の松蔭寺において入寂した。白隠の詠に 恋人は雲の上なるお富士さ…

十二月二十七日

滝ばかり埋め残したる木曽の雪 (柳の露) 旧中山道を上松から須原へ向う途中の、西筑摩郡上松町字小野の断崖には「木曽八景」中の一景である小野の滝がかかつている。ここばかりはさすがの木曽の雪も埋め残している感があるというのである。 滝の落口の前を…

十二月二十六日

人馬とも信濃は雪のもぐらもち (同 一一二) 雪の降る頃である。寒いといつても雪ごもりするほどでない。行つて見たいお祭りが伊那の遠山郷にある。 下伊那郡南信濃村、上村一帯に十一月末から十二月中旬にかけて行われる遠山霜月祭は昭和二十七年無形文化…

十二月二十五日

弘法の奇特一村屁もひれず (同 六九) 「十三里」の行燈に、やき芋のPRを文字通りうべなうとき弘法大師の石芋伝説(小県郡青木村)を思い出す。そんな季節である。 大師はこのほかにも弘法井、弘法池などの伝説を各地に残している。水に恵まれない土地で…

十二月二十四日

すべらずば芭蕉信濃へゆくつもり (同 三一) 俳聖芭蕉は「いざさらば雪見に転ぶところまで」とほのめかしたので、すべらないなら信濃へ行く胸算用をかぞえていたのだろうとおもわくしたのである。 家中でクリスマスツリーを飾り、あかあかと燃える蝋燭をか…

十二月二十三日

権兵衛が足を踏んだが運の尽き (柳多留 三二) ラジオ、テレビ、掃除機―何ごともスイツチひとつで思うがままのオートメ時代、モダン石川五右衛門登場、例により大きなカマの中でいよいよ本番。もう煮えてきそうなものと五右衛門観念しきつて待つがどうした…

十二月二十二日

水おけへ斧を切つこむ木曽の冬 (田舎樽) 正岡子規の『かけはしの記』に「やうやう五六里を行きて須原に宿る。名物なればと強ひられて花漬二箱を購ふ。余りのうつくしさにあすの山路に肩の痛さを増さんことを忘れたるもおぞまし」とある。小箱の中に桃や桜…

十二月二十一日

諏訪の神異世の為に湯と氷 (新編柳樽) 諏訪神社上社に諏訪明神と一しよにおられたその妃神が、別れて下社に移られるとき、愛用の化粧品のうち御湯を綿にひたし湯玉として持ついつたが、その途中その湯玉から滴り落ちた御湯が今の諏訪湖畔に湧出している温…

十二月二十日

雪の夜は糊でつけたる顔二つ (柳多留 一) アルピニストの話題になる雪男の怪異は真に男性的だ。そして雪女は神秘的である。 猟師の親子が吹雪のため山小屋にとじこめられた夜、どこからともなく色白の女が訪ねて来た。昼間の疲れで寝ていた父に見向きもせ…

十二月十九日

浦島も慾にかまけて哀れなり (眉斧日録七) 中央西線上松駅は森林鉄道の終点の位置にある。木曽木材の集散地で、官材・民材あわせて年間十万トンをさばいているという。 木曽は尾張藩の管理下にあつた。住民は材木に恵まれ、それで生活したが、自由にならな…

十二月十八日

小角は二人禿に鬼を連れ (柳多留拾遺 三) わが国で中世以来苦業を練修する者を行者といつたが、修験道の祖である役小角(えんのおづぬ)は前鬼後鬼と呼ぶ二人の鬼を召し連れていたそうだ。 この小角は甲斐国から信濃国に入り諏訪から佐久に出たとき、大門…

十二月十七日

貞光は袴に馬をつけて来る (川傍柳 二) 「袴を馬につける」という奇想天外な作者の魂胆が先ず謎解きの触手をうながす。袴とは当時洛中洛外を騒がせていた巨頭の略称だ。左京太夫藤原致忠の子で、平井保昌の弟の右京亮保輔と言い、異名を袴垂保輔と呼ぶ。 …

十二月十六日

行衛定めず営中を出る清水 (しげり柳) 木曽義仲は子の義高を鎌倉に人質として送るときいましめて「お前は頼朝によく仕えて決して逆うことあつてはならぬ」と、その臣海野幸氏を従行させた。頼朝は娘を義高の妻として嫁がせたが、義仲追討の院宣が出てから…

十二月十五日

清水を呼ぶも鎌倉の深い智恵 (差し柳) 木曽義仲の遠縁に当る甲斐の武田信光は、自分の娘を義仲の子の義高に嫁がせようと願つたところはねつけられた。それを根に持つて鎌倉の頼朝に「義仲は平家に内通して頼朝を討とうとしている」と中傷した。 また義仲や…

十二月十四日

十四日昨日は胴で今日は首 (柳多留 一一) 昨日は胴で、今日は首を斬りさいなんでいる川柳残酷物語ではない。 十二月十三日は煤払の定日で、主人以下一同を胴上げして、めでたく掃き納める習慣があつたが翌十四日は元禄十五年(一七〇二)十二月十四日を指…

十二月十三日

白鳥と化して碓氷の放ち鴛鴦(おし) (柳多留 一四〇) 人皇第十二代景行天皇のとき、皇子日本武尊を九州討伐に向わせた。十六歳、童女の姿に身をやつし首領を討ち取つたり、のち駿河の国では天叢雲剣で大いに賊をなやませたりなかなかドラマチツクな英雄で…

十二月十二日

馬士唄は雲の上まで引出され (柳のいとくち) 逢坂の関の清水に影見えて 今や引くらん望月の駒 紀貫之(拾遺集) 逢坂の関というのは近江国にある。毎年献上に馬を引いてくる人たちをここで迎えた。それを「駒迎い」というが、信濃国からも八十頭、そのうち…

十二月十一日

明ろくじやなどと豆腐やしやれをこき (田舎樽) 「しやれをこき」は「しやれをいつた」の意。「何こくだ」「ごたこく」「何こきやがある」「屁をこいた」などと信州では慣用語、方言ともとれる。 たたく、打つという違つた意味で「こく」がある。 「田舎樽…

十二月十日

小さな石が重氏の道の邪魔 (柳の丈競) 長野市石堂町の刈萱山寂照院西光寺は芝居や琵琶歌で子女の紅涙をしぼらせる刈萱上人の等阿法師が開基し、その子の石童丸が後を継いだお寺であつて刈萱堂と呼ばれ、土地の字の石堂も石童丸に因んだものと言われる。 高…

十二月九日

連れないにや劣ると信濃供に連れ (柳多留 一八) 信州の二山といえば佐久間象山と坂本天山だ。両人ともきわめて頭がよく、一方はデツカイ人物、一方は砲術の大家。役にも立たないが、連れないよりはまだましといわんばかりのこの句を見せれば二山先生したた…

十二月八日

先刻の間違信濃者と詫び (川傍柳 二) 信州の教育水準は高い。どんな小さな部落にも立派な校舎がある。明治、大正にかけてすぐれた教育理念を注入し、そこから独特のものを生み出してきた伝統があるからだ。長い冬の間を炬燵にあたりながら読書の習慣を身に…

十二月七日

切れた三ン持たせ信濃を買ひにやり (柳多留 二二) 融通がきかぬということはガンコと解される。そのいい例は信州人。だからユーモアを感じとれぬ人種との定評も生む。底抜けの笑いがなくバカ騒ぎのムードがわいてこない。いい気持で酔うはずなのに、妙に議…

十二月六日

椋鳥も毎年来ると江戸雀 (柳多留 七三) 「信州人は無表情で笑いが少ない」というのが他県人から見た印象のようだ。笑いが少ないことが恥になるとは思わないが、確かにかえりみてコツンとくるフシがないでもない。長年きびしい気候と貧しさに追いまくられ、…

十二月五日

黒姫も化粧の目立つ今朝の雪 (東宰府天満宮奉額) 小説家堀辰雄は『晩夏』に、「森の上には黒姫山が大きく立ちはだがつてゐる。その左手に、ややおおきくなつて見えるのは戸隠山だらう。ここは本当に信濃路といふ感じだ」と書いている。 黒姫山は標高二〇五…

十二月四日

平八が娘のしめるさなだ帯 (柳多留 九四) 上田市常磐塚の芳泉寺に小松姫の墓がある。真田信之の妻として女丈夫えであつたことで知られている。 徳川家康が政略的結婚をもくろみ、本多平八郎の娘おねゐを養女にして真田昌幸の長男信之の夫人とさせた。 関ヶ…

十二月三日

東西を一反づつの上田縞 (柳多留 三三) 上田といえば真田を思い出すが、上田城を築いた真田昌幸の子に信之と幸村があつた。慶長五年(一六〇〇)関が原合戦に、昌幸と幸村の父子は石田三成のすすめで西軍に加わつて上田城に頑張つたが、幸村の兄の信之は関…

十二月二日

ゆきむらの智勇は敵もつもりかね (柳多留 七四) 山にはもう雪が降つたようだ。そろそろ町にも村にも本格的な寒さが訪れよう。雪のシーズンである。 この句は「雪が積る」という言葉を利かしている。真田幸村のユキ、その雪の積り方が何メートルあるか、ち…