2012-08-01から1ヶ月間の記事一覧

八月三十一日

屁をひつたより気の毒はおならなり (柳多留 一六) この句の例証とは違つてごく普通の嫁さんが難儀して、それが特技だつたためご褒美をいただいた民話がある。下高井郡山ノ内町に行われるもの。 「屁だけはこらえなければなりませんよ」嫁入りの前の日にこ…

八月三十日

神に九頭龍里芋に八ツ頭 (柳多留 五九) 天照大御神が天の岩戸にお隠れになつたとき、力自慢の手力雄命がその岩戸を力いつぱい引きあげた。そのとき信濃国に落ちたのが上水内郡戸隠村の戸隠山である。 また、その響きで出来たのが九頭龍山に鎮座する九頭龍…

八月二十九日

丸顔を味噌にして居る軽井沢 (柳多留 一) 蜀山人、大田南畝は、安永年間(今から約百八十年前)に洒落本「軽井茶話・道中粋語録」を書いた。「軽井」は信州の軽井沢である。この当て字は軽い茶ばなしを利かせ、粋語録(すごろく)は雙六、粋な語録の意味だ…

八月二十八日

声色にかなつんぼうの軽井沢 (出典不明) 落葉松の林を愛し、あるいは美しい山を恋い、じつくり人生の意義を見出す人がいるかと思えば、たまの休暇を十分に活用しようとしていささか不作法にもなりがちな観光客もいる。軽井沢別荘族などは顔をしかめて舌打…

八月二十七日

木綿着て君は待つらん軽井沢 (俳諧金砂子) 軽井沢は浅間山のふもとの海抜九四〇メートルの高原で避暑地として名高く、ことに外人客でにぎわう。近くに星野・小瀬の温泉場つつじケ原・鬼押出し・千ケ滝・浅間牧場など遊覧、景勝の地が多い。また間近に見え…

八月二十六日

頑丈な遊君のでる軽井沢 (川傍柳二) 浅間山のふもとにある北佐久郡軽井沢町は国際観光都市として大きくクローズ・アツプされている。信越線改修、国道十八号線の全面舗装で東京への距離はますます近くなる。避暑客がふえるのも当然だ。だから受入れにぬか…

八月二十五日

後朝にわらんじを履く軽井沢 (出典不明) 浅間山さんなぜ焼けしやんす 裾にお十六持ちながら 浅間山の噴煙を“やきもち“にたとえ、追分・沓掛・軽井沢の浅間三宿を三四九と数字化し、十六娘になぞらえたもの。江戸時代、このあたりは人の往来激しく活況の宿…

八月二十四日

むかい湯に来たりや寄りなと軽井沢 (柳多留 三) 上高地でも、アルピニストの基地だつた小梨平に、浴衣がけやハイヒールの軽装で散歩する人が多い。山に生きる男たちはこれをにがにがしげに見やり、さらに上の徳沢でキヤンプする。これと同じようなことが軽…

八月二十三日

風流と武勇と背中くらべなり (柳多留 四〇) 西筑摩郡福島町の興善寺は、巴御前が木曽義仲の遺髪をまつつたと伝えられ、日義村の徳音寺と同じくその墓所がある。 また義仲が壮烈な最期を遂げた粟津の近く大津市馬場町の義仲寺にもある。これは天文二十二年…

八月二十二日

義仲の頃より榾の火は消えず (俳諧ケイ八) 木曽出身で全国に名を売つたのは木曽義仲と島崎藤村にまず指を折ろう。 藤村の故郷の馬籠は西筑摩郡山口村神坂にある。明治五年、島崎正樹の四男に生れた。のち折にふれ故郷の風景や風習を書いて、自分の出生と成…

八月二十一日

温泉に入つておじやれと穂屋の祭客 (俳諧一枝筌) 穂屋というのは薄の穂でふいた屋根の事。穂屋の神事、御射山祭に於ける八ケ岳山麓の穂屋野を指している。 御射山祭によばれたお客さんに、どうか温泉へ入つていきなさいとすすめているのである。諏訪市にも…

八月二十日

浦島は歯茎を噛んでくやしがり (柳多留 三七) 中央西線上松駅近くを通ると、車掌さんが寝覚の床を説明してくれるが、列車のなかからもよく見える。上松駅から一キロ半、バスで五分。街道から寝覚の床にはいるかどに、寿命そばで名高い蕎麦屋がある。中仙道…

八月十九日

寝覚の蕎麦を夢で食ふ旅づかれ (柳多留 八四) 旅の山中で、大蛇が人を呑むところを見てびつくりした。その大蛇が傍らの草を舐めると、今まで太鼓のようにふくれていた腹が元のようになつてしまつた。二度びつくり。あれは強力消化剤に違いないと持ち帰り、…

八月十八日

びつくりと兎飛び出す木賊刈 (柳多留 八六) 木賊の茎の乾燥したものは研磨用になる。小印刷物の誤字を訂正するとき、いまは電気仕掛のゴム消器械があるが、ひと頃この木賊を使つたものだ。 下伊那郡阿智村知里の園原は、むかし「木賊かる園原」と歌にも詠…

八月十七日

諏訪の湖夏わたるのは月ばかり (柳多留 七四) 諏訪湖は初め長方形だつたが、南北に川の運んだ集積物がたまつて東西に長い形に変つてしまつた。海のない長野県にあることで、産業や文化にどれほど影響をもたらしたか、それは歴史がつづり風俗が語つてくれよ…

八月十六日

暑い事諏訪へ参るに大廻り (柳多留 二三) カブキの本朝二十四孝の立役、八重垣姫は諏訪湖祭に人気を集める。諏訪法性のかぶとにまつわる武田勝頼と、上杉の息女八重垣との奇しき物語。舞台は下諏訪、明神さま、桔梗ケ原などがあり、そのうちでも「十種香の…

八月十五日

蓮の葉に事欠く木曽の魂祭 (柳多留 八六) お盆である。盆棚を作り、盆花を供える。桔梗・女郎花・吾亦紅・萩・山百合、この句の蓮の葉もそうだが、江戸時代、木曽あたりには山中蓮なしということだつたらしい。いまはどうだろう。 盆棚には茄子・胡瓜の馬…

八月十四日

留守に姨捨てて信濃の盆踊 (ことたま柳) 盆踊が各地で盛んだ。老若男女が楽しそうに夜の涼みがてらに踊る。この句のように老母だけ家で留守番をさせたりはしない。若がえりのつもりで腰を伸ばして手振り足振りよろしくお年寄りも負けてはいない。ほほえま…

八月十三日

檜には檜の振りの木曽踊 (俳諧ケイ二七) 木曽川のせせらぎにこだましながら格調の高い木曽節が聞えてくる。木曽谷の民謡からついに日本の民謡にまで成長したことを痛感する人が多い。それだけに古くから伝わる素朴な歌調を愛し、優雅な踊り振りが失われな…

八月十二日

権兵衛が宿直手柄の種を蒔き (三箱追福会) 戦国時代の盗賊石川五右衛門。こそ泥と違つて流浪の旅をしながらもやる事が大きい。剛胆でからだは大きく、力は三十人前の強さだつたといわれる。京都の内外に横行し、大胆にも秀吉を刺そうと伏見城に忍び入つた…

八月十一日

おあしの旗が真田かと淀の方 (柳多留 五五) 忍術使いのベテランといえばすぐ猿飛佐助を思い出す。いわずと知れた真田幸村の十勇士のひとり。伝説によると信州森家の浪人鳶屋佐太夫の子、鳥居峠の山中に戸沢白雲斎から術をさずかり、十五才で幸村につかえ、…

八月十日

一じようの上田で道を張りふさぎ (柳多留 八三) 上田紙は明治中頃まで製造していた小判の粗紙で、小杉原ともいつた。上田城下の村々で冬仕事にすいては江戸へ出していた。なかなか評判がよく、鼻紙としてみんなに重宝がられた。使いの者にお祝儀用で与えた…

八月九日

六文を四十二文にはたらかせ (柳多留 八二) 上田城で名高い真田幸村は徳川方をしばしば悩ませ、知将ここにありと広く知られた。大阪城で奮闘した時、新発明の自雷火で敵方を驚かせたことがある。その自雷火はサツマ芋の屁をつめて作つたものだつたというの…

八月八日

大阪で夏も信濃をこきつかひ (安永七年) この句だけ読むと、さしあたり大阪商人のがめつさが髣髴とする。世が世であればたちまち労働条件改善ののろしが上がりそうである。信州人は働き者で、農閑期は江戸に出かせぎに出たもの。 つまりこの句、真田幸村の…

八月七日

銀河玉子のからがめた流れ (田舎樽) 銀河はあまのがわ、天の川である。晴れた夜に川のように見える恒星群。 子どもたちが笹竹に五色の短冊を結んで祭る。その短冊には思い思いの字が墨で書かれている。楽しい七夕様の子どものお祭。信州では一ト月遅れのき…

八月六日

二階から見ては淋しい藤の花 (宝暦十一年) 前衛書道では”藤”という字を書くときにまるでみんなたれ下がつているように見えて印象的だ。 伊那市西箕輪の若宮神社の神木にまきついている大藤は、豊年かどうかをうらなう木でもある。 下伊那郡阿南町大下条の…

八月五日

雷電と稲妻雲の抱へなり (柳多留 五三) 現今の相撲は本場所十五日であるが、以前は十日間で、またその前は八日間であつた。 いい天気土間へ畳を八日敷き これは八日間であつたことを示し、 晴天十日袖のある花が降り ヒイキの客が勝力士に羽織を投げ与えた…

八月四日

また降りだらう雷電に九紋龍 (柳多留 二八) 名力士雷電為右衛門は十六年間も大関の地位を占め、実力は当時同じ西方であつたため取組みはなかつたが横綱谷風以上であつたといわれている。また一度横綱を免許されようとしたけれど、我は天下の雷電で満足だと…

八月三日

小笠原では間に合はぬ俄雨 (水天宮奉額祭) こう暑くては夕立がほしいなあと思つていたら、道でにわか雨にあつた。かくれる場所もない。エエままよ、といちもくさんにかけ出した。 小笠原のシヤナリ、シヤナリではとても間に合いそうもない。この句のひやか…

八月二日

虫へんに文(ぶん)ともいはぬ木曽の夏 (柳多留一二八) 全く暑い。毎日がうだるような暑さだ。長いトンネルをあえいで汽車がのぼる。むせかえるほどの煤煙に、機関車に乗つている人たちの苦労がわかるというもの。朝からしつとり汗がにじみ出る。やきつく…