2012-05-01から1ヶ月間の記事一覧

五月三十一日

二十四の頭に宿る諏訪の神 (柳多留 八八) 出雲族の建御名方命が高天ケ原族に追われて州羽海(すわのうみ)に逃れてのち諏訪大社上社の祭神となり、下社は海神族の同妃八坂刀売命を祭つてある。 この句の二十四とは、甲斐の武田信玄の将卒である。信玄は死…

五月三十日

松の本神も二枝跡をたれ (柳多留 五六) 柳多留というのは江戸から出た川柳句集である。明和二年(一七六五)に初編が刊行され、延々として天保十一年(一八四〇)の百六十七編に至るまで続いた。 俳句と同じように十七字だが、題材が広くかつ深く、人情機…

五月二十九日

伊香保まで浅間の荒れの鳴渡り (俳諧ケイ 八) 浅間山の噴火の最も古い記録といえば「日本書記」天武天皇紀に「十四年三月、是月灰零於信濃国、草木皆枯焉」とある。いまからおよそ千三百数十年の昔にさかのぼる。 しばしば爆発して山麓地方に灰をふらして…

五月二十八日

十郎はたび〱虎の皮をはぎ (柳多留 四〇) 富士の裾野に見事な仇討の本懐を遂げた曽我兄弟。兄の十郎祐成、弟の五郎時致はまだ紅顔の若者であつた。十七星霜、それは長く苦しかつたことだろう。 祐成には言いかわした愛人があつた。相州大磯の遊女虎御前で…

五月二十七日

吉次が荷おろせば馬はかいで見る (柳多留 一) 伊那の伝説。下伊那郡阿智村知里の園原が伏屋の里と言われ、神坂越えの大切な宿場であつた頃、この里に井原喜藤治という貧しい炭焼きの男が、見込まれて都の高貴な姫君と夫婦になり、ふとしたことで非常な金持…

五月二十六日

兼平は立派に落馬した男 (柳多留三五、一二九) ダービーといえばすぐに競馬が思い出させるが、実は一七八〇年、第十二代ダービー伯が始めて創案したもので、ロンドンの近郊、エプソムで行われたのがそもそもの始めだ。わが国では昭和七年から東京競馬倶楽…

五月二十五日

庭の松ねぢりまがつて御堂に入り (田舎樽) 信州人の中にはちよいちよいへそ曲りがいるものだが、これは庭の松がねじり曲つていたため評判が高かつたお話。松本市中山の保福寺の庭にあるのがそれで、なかなか変つた松。いく枝にも四方にはい、のび切つたと…

五月二十四日

川口のたたらの中に善光寺 (しげり柳) 児童作家、早船ちよの作品「キユーポラのある街」は児童福祉文化賞を受けたほど心のあたたまる作品。東京と川ひとつ隔てた鋳物の町川口市を舞台に、銑鉄溶鉱炉(キユーポラ)と取組む人々を描いたものだが、映画にも…

五月二十三日

諏訪の温泉の香の残る手拭 (俳諧ケイ 二二) 諏訪湖をめぐつて諏訪市と岡谷市と下諏訪町がある。諏訪市は城下町、岡谷市は製糸工場の新興都市、下諏訪町は湯の町の印象。 下諏訪町は今でこそ上諏訪温泉より湧出口も少なく、観光地として一歩を譲つている感…

五月二十二日

そら高く聞く松島の時鳥 (甲府正木稲荷奉額) きようは曽良忌。 諏訪市上諏訪の正願寺境内に 春に我乞食やめても筑紫かな の句碑がある。 これは蕉門十哲の一人、河合曽良の作。上諏訪出身、本姓は岩波氏、若くして家を弟に譲り、河合氏の養子となつた。 江…

五月二十一日

鎌首を見て刈萱は山へ逃げ (一安追善会) 落語に「絞紺屋」がある。本妻と妾と同居させ、至つて仲よく、妾は鳴海しぼりを造ることが上手で、本妻もこれに協力してくれるので、亭主は誠に裕福である。「それはよくないことだ。加藤左衛門尉重氏という殿様は…

五月二十日

雷の出るを太鼓で触れあるき (柳多留 五四) 昭和の雷電再び出よ、の声を聞いて久しい。それほど雷電為右衛門は豪快な大力士であつた。小県郡東部町滋野の人。 明和四年(一七六七)生れ、江戸に出て十九歳のとき浦風林右衛門の部屋にはいり持前の体を利し…

五月十九日

しらなみのうわさ式部が来るとかや (柳多留 二一) 諏訪市中洲の金子というところの百姓の一人娘かねは、幼いとき両親に死に別れ下諏訪のとある家に奉公した。あるとき主人の機嫌を損じて額を焼かれ火箸で打ち叩かれた。痛さに堪えかねいつも信心する地蔵尊…

五月十八日

白黒の馬で宇治川先手後手 (柳多留 九四) 松本市島立区北栗の正行寺址の境内に佐々木四郎高綱の墓がある。承久三年(一二二一)十月十五日入寂、六十二歳。 明治三十九年五月、乃木希典将軍が祖先の遺霊としてこの墓を参詣し石燈籠を寄進、また殉死の後、…

五月十七日

値の知れぬ山を小角踏んで見る (しげり柳) もとは湿原にすぎなかつたが、いまは人造湖として白樺湖という名前があり、長野県でも一流の観光地。茅野市北山、茅野駅からバスで一時間。白樺湖の西北の小高くなつたところを大門街道が茅野から北佐久へ延びて…

五月十六日

馬洗ふ米とは敵も量りかね (梅柳) 上田市神科上野の米山城址から黒く焼け焦げた米がたくさん掘り出されるが、柵をこしらえて保存している。 頃は天文年中、甲州の武田勢が米山城にたてこもる村上義清の軍を攻めた。城の守りは堅固で容易に陥ちそうもない。…

五月十五日

ひまを盗んで自来也を見に這入り (柳多留一五一) 「児雷也豪傑物語」などを一連とする児雷也の芝居は、神出鬼没、忍びの者の活動を描いたもので大当りをとり名高くなつた。 もともと中国小説の翻案で、勧善懲悪の歯切れのよさが愛読され、また観劇された。…

五月十四日

石燈籠いつのか知れぬ油皿 (桜の実) 古い石燈なら油皿は昔のままでいつ使つたのだろうと思われるのもある。南佐久郡臼田町の好色燈籠はいい例だ。 「ここにドンフアンン一人ありぬ」を地で行つて遍歴中、このあたりに来たところ稀れに見る美人に逢い大いに…

五月十三日

弁慶はせめて小町はからむたい (柳多留 一三) 小野小町は全くなくて弁慶はそれでもたつた一度はあつたのだ。弁慶安んじて可なりとかずをこなした人はよそごとに言いたがる。 九郎判官義経が奥州へ落ちのびる頃のこと弁慶も一しよに従つて行つたが、信濃路…

五月十二日

宿下り母のお六に香を残し (柳多留一〇四) 宿下りは、御殿や御屋敷に奉公する娘さんがしばらく暇をもらつて父母の家に帰ることで、普通二年か三年に一度ぐらいだ。お六はお六櫛、木曽薮原の名産。 久しぶりに帰つて来た娘と打ち解けていろいろ積る話は盡き…

五月十一日

戸隠は日本中の目を覚まし (梅柳 八) 天の岩戸にまつわる神話のひとくだり。だから戸隠にある時計台が日本中に鳴り渡つてみんなの目を覚ましたわけではない。その時計台といえば、明治象徴の風景としてイメージを濃くする。木工木版に刻つた時計台之図は無…

五月十日

塩尻に見ゆる信濃の蕎麦の花 (一枚筌) 小鳥のさえずりを聞こうと、五月から七月にかけて、毎朝、塩尻峠へ小鳥場バスが出る。きようから愛鳥週間。夏ソバの花もこの頃。 その塩尻峠を含む蓼科、八ケ岳、霧ケ峰、美ケ原が国定公園として長野県と山梨県で申請…

五月九日

橘を碓氷の嶺でなつかしみ (柳多留一二七) 信越線軽井沢駅からバスで熊野神社前で下車する所がちょうど頂上。碓氷峠である。 神社は日本武尊創建と伝えられる。相模から上総に転進しようとして海を渡ると、暴風になりなか船が進まない。海神のたたりだろう…

五月八日

さてさてうすい縁よなわが妻よ (柳多留一〇六) 歌人土屋文明は大正七年諏訪高女いまの諏訪二葉高校教師、九年に校長となり、十一年には松本高女(いまの松本蟻ケ崎高校)の校長に転じている。「碓氷峠」と題して 追ひつきし炭つけ馬は馬くさし 青草いきれ…

五月七日

貞光は褞袍脱げもした男 (柳多留 九) 唱歌「おおえやま」の第三章に けらいは、なだかき、四天王 山ぶしすがたに、みをやつし けわしき山や、ふかき谷 みちなきみちを、きりひらき そして良民を悩ましていた大江山の酒呑童子という鬼の一味を退治する功名…

五月六日

手紙には狸臺には鯉をのぜ (柳多留 五) 佐久地方の佐久鯉は信州の特産として全国に知られているが、佐久市では、佐久鯉をもつと広く紹介しようと、PRと観光を兼ねた「コイまつり」を考えた。時期は鯉幟りのおよぐ五月五日前後とし、コイの供養、コイ釣り…

五月五日

雨あがり庭に子供の声がする (田舎樽) きよう五日はこどもの日。あどけない子どもたちの声が雨あがりの庭に明るくわきあがつている。この句、古川柳にはまれな音調で口ずさまれ得る親しさがある。清新で童話的な匂いすらあつてほほえましい。 出典「田舎樽…

五月四日

小笠原庭へ仕付けた御辞宜草 (しげり柳) 小笠原家は代々礼法の本家として知られているので恐らく庭にも、おじぎ草あたりが植えられているのではないかという想像句である。おじぎ草は一名ねむりぐさともいい、含羞草とも書く。 「三儀一統」という礼法書が…

五月三日

薄雲で少しは晴れた御胸なり (柳多留 四一) 萬治高尾とか仙台高尾とか呼ばれた名妓高尾は伊達候をふつたことで名がある。その妹妓薄雲はふりそうな名でふらず、伊達候の意に添つた。そこで仙台薄雲が生まれる。 薄雲は埴科郡坂城町南条の鼠宿という部落の…

五月二日

どう見ても真田は男二ひきなり (柳多留 五六) 上田城に真田石というのがある。畳八枚を敷いたくらいの大きい石だ。 関ヶ原合戦がすんで、城主の真田昌幸は上田から紀州に移されることになり、かねて徳川家の縁続きになつていた昌幸の長男信之が代つて居城…