2012-06-01から1ヶ月間の記事一覧

六月三十日

くじら汁四五日なべのやかましさ (同 七) 中央東線小渕沢と信越線小諸とを結ぶ小海線の七八・九キロは山岳展望が素晴らしい。野辺山駅は一三四五・六メートルで国鉄最高の駅、清里駅が一二八〇メートルで二番、甲斐大泉が一一〇〇メートルで三番と、三位ま…

六月二十九日

ごうせいに兵糧を喰ふ木曽の陣 (同 八六) 治承四年(一一八〇)高倉宮以仁王より諸国の源氏に平家追討の令旨が下つた。満を持していた木曽義仲は雄心勃々これに応じて兵を挙げ一千余騎の味方を得た。 京都の平氏はこれを聞いて驚き、義仲を小さいときから…

六月二十八日

北からも一度朝日が登るなり (柳多留四三) 信州が生んだ英雄木曽義仲を観光的に売り出そうと、西筑摩郡日義村では中央西線宮ノ越駅前に「木曽義仲発祥地」の塔を建てた。そして「木曽義仲旧蹟案内図」の大きい看板もかかげて大いにPRにつとめている。 宮…

六月二十七日

頼まれた駒を別当木曽へ連れ (一安追善会) 木曽義仲は幼名を駒王丸といつた。 父の義賢が武蔵国多胡にいたとき、義賢の兄である義朝の子悪源太義平のために殺された。久寿二年(一一五五)のときである。駒王丸は生れて僅かに二歳であつた。 義平は家人の…

六月二十六日

大太(だいら)ぼつちは大人国の迷子 (柳多留 一二一) 巨人伝説は本県でも碓氷峠、浅間山、蓼科山。小県郡塩田町の男神・女神両岳、長野市芋井の大座法師池、南安曇郡三郷村小倉の背負山その他実に多い。大太法師は所によつてダイラボツチ、デイラボツチ、…

六月二十五日

不二山へ大太(だいら)ぼつちは蹴つまづき (柳多留 三七) 大太法師(だいらぼうし)にまつわる伝説は全国各地に分布している。富士山にけつまづくとは大仰だが、ことほど左様な巨人というわけである。諏訪地方ではこの大太法師がその昔、湖を埋めようと八…

六月二十四日

手と足の長い野郎を冬かかへ (柳多留 一六、一四五) 諏訪市上桑原の足長神社と下桑原の手長神社には七百余年も昔の書にみえる古い由縁がある。土地の言伝えによると、諏訪明神の家来であつた足長、手長の二巨人がそれぞれ手長明神、足長明神としてまつられ…

六月二十三日

姥捨てた土地ははきぎも見え隠れ (新編柳樽 二四) 大岡昇平の「武蔵野夫人」は在来の風俗小説や不倫小説とは多少違つた知的な新しさを持つ作品といわれる。風景はすべて武蔵野。 大岡昇平は昭和の武蔵野なら、佐藤春夫の「田園の憂鬱」は大正の武蔵野。も…

六月二十二日

熊坂は十六七にしめられる (柳多留 三八) 落語に「熊坂」というのがある。金売吉次が牛若丸と連れ立つて奥州へ下る途中、美濃国赤坂の宿に泊つたとき、大盗の熊坂長範がこれを襲い大乱闘となつた。 牛若丸は小太刀、長範は大薙刀、しかし牛若丸の手練の剣…

六月二十一日

福島市松名で聞くと強くなし (柳多留 一二七) 豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍の髄一として雷名を轟かせた福島正則も、幼名は至つてやさしい市松。 その後、九州陣・小田原陣・朝鮮役などに高名をあらわしたが、秀吉歿後、徳川幕府の嫌忌にふれ上高井郡高山…

六月二十日

哀れさはべろん〱の物語り (柳多留 四二) 平家物語は信濃前司行長が作つて生仏という盲僧に教えて語らせたものである。いわゆる琵琶法師の語り物として行われた。軍紀物の最大傑作として庶民的な文学性というものをまともに触れ得ることであるが、それは語…

六月十九日

歌の伯楽きり原の駒を聞き (しげり柳) 日本で最も高く、広くそして美しい高原といえばハイカーはみんな美ヶ原高原を名指すだろう。標高二、〇三四米。松本、浅間、丸子から直通バスがあるが、松本廻りでゆく道に桐原というところを通る。このあたり桐原の…

六月十八日

雲雀とは鳥居の上で翁よみ (柳多留 一一六) 鳥居峠は日本海にそそぐ犀川の上流奈良井川と、反対に太平洋に流れる木曽川との分水嶺でもある。ここにはいまも木曽義仲が出陣のことばをしたためたという「硯の水」の旧跡や芭蕉の著名な句碑「雲雀よりうへにや…

六月十七日

くぐるべき鳥居を跨ぐ木曽の旅 (柳多留 一五七) 鳥居峠は木曽路の東玄関、奈良井と薮原の中間にある。当時、道はあくまでけわしい旧中仙道。いまはこの下を中央西線のトンネルが貫き、面影はしのべない。 峠山頂、標高一、一九七メートル。むかし御嶽遥拝…

六月十六日

善光寺辺かと明き徳利を遣り (川傍柳 一) 六月の第三日曜日は父の日。 母の日ほど冴えないようである。お母さんには目もあざやかなカーネーションを献げてこころからなる感謝の念をこめる家庭風景でほほえましいが、お父さんはいかめしさが先行して殊更ら…

六月十五日

長芋を惜しむと棒にされるとこ (柳多留 六七) きようは弘法大師誕生会にあたる。弘法大師の伝説のひとつに「石芋」がある。大師が諸国修行中、空腹を感じ芋を求めたとき土地の者が「芋は堅くてとても歯に合いません」といつて断つたため、以来その土地で作…

六月十四日

能く蹴つて見ればはなかみにさうゐなし (田舎樽) 井原西鶴は好色物・武家物・町人物を書き分けた。町人の経済生活を主題に取りあげ、町人物の嚆矢とされるのは「日本永代蔵」である。貞享五年(一六八八)出版、四十七才の春であつた。 この句は「日本永代…

六月十三日

権兵衛が目を覚めぬと〆たこと (柳多留 八九) 小諸城は寿氷の昔木曽義仲に属した小室太郎が住んだと伝えられる。この城はまた大盗石川五右衛門を捕えた仙石権兵衛が城主をつとめたとの記録もある。 権兵衛は美濃国の生れ。秀吉につかえて数々の武勲を立て…

六月十二日

づくなしに重石をかける雨が降る (田舎樽) 暦のうえでこのあたりから入梅。 この句の雨は梅雨とはきまつてはいないが、あの鬱陶しい、じめじめした梅雨にふさわしい趣きがある。ずくなしは信州一帯に用いられる方言のひとつ。 仕事に励みや根気のあること…

六月十一日

上田の古着大阪の晴れ着なり (柳多留 八四) 智将名将かずあるなかでわが信州が生んだ真田三代は誇りのひとつ。 上田城を築いた真田昌幸はその子信之に徳川家康の養女を貰つた関係で、関ヶ原合戦のとき親子敵味方に分かれねばならなかった。 徳川秀忠の大軍…

六月十日

人丸を枕時計にして寝入り (田舎樽) きようは時の記念日。 朝早く起きようと思うとき、柿本人麿の詠と伝えられている。 ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島がくれ行く船をしぞ思ふ の上の句を三度前夜就寝のとき唱えて祈念すると、翌朝望みの時刻に目が覚める…

六月九日

金の気であけて浦島腰が抜け (柳多留 五二) 英人牧師ウエストンは明治二十四年に槍ヶ岳に登つたのがきつかけで、北アルプスを紹介した開発者である。上高地にリリーフが飾られ、その前で登山シーズンにさきがけてウエストン祭が行われる。 ウエストンの登…

六月八日

犬坊はかみつくやうにくやしがり (柳多留 一四) 火の玉が毎夜のようにふわり〱と浮び上つて近所の人たちを怖がらせた。これは犬房丸の亡魂の仕業だろうという評判だつた。上伊那郡西春近村小出あたりである。 建久四年(一一九三)夏、富士の裾野の牧狩に…

六月七日

山中の鹿狼をうつて取り (柳多留九八・一五〇) 山中鹿之助といえば戦国時代に尼子十勇士で知られた武将だ。 南佐久郡南相木村の相木森之助の子として生れ初め甚之助、のち山中鹿之助と改めた。出雲に行き年十六才で尼子家に仕え、歴戦してその名は天下に鳴…

六月六日

川留にこりて寝覚の蕎麦を食ひ (柳多留 二五) 木曽の寝覚床へ街道から入るところ、旧中仙道の寝覚の立場には昔から名高い蕎麦屋があつた。江戸時代のユーモア作家十辺舎一九著わす「続膝栗毛七篇」の挿絵に歌麿画くその店先が載せられているほどだ。その一…

六月五日

月雪と仏は国の三ツ道具 (柳多留 八九) 信州の生んだ俳人一茶の句「信濃では月と仏とおらが蕎麦」はすでに定評があり、いまもなお観光PRに役立つている。が、これと同じようにこの古川柳はずばりと月・雪・仏を「三ツ道具」と言い切つている。 月といえ…

六月四日

薬師へめめめ戸隠へははははは (柳多留 一五) きようはムシ歯予防デー。痛いのはいやだ歯は丈夫に越したことはない。 上水内郡の戸隠の神は昔から歯の病を癒す神様として信仰せられていた。だから歯を病む人はこの神の神供である梨を断ち物にして平癒を祈…

六月三日

仙境へ入る心地する久米路橋 (飛騨日吉山王奉額) 更級郡信更村から上水内郡信州新町に向つてゆくと、犀川中流に久米路橋が架かつている。全長四五・七メートル、幅五・五メートルの変りばえのしない鉄筋コンクリートの橋だが、拾遺集に 埋れ木はなか虫ばむ…

六月二日

血眼で弥三郎めと追つかける (柳多留 四三) 平景政は平安朝時代の勇士。鎮守府の将軍平忠盛の孫で景成の子。その父景成が鎌倉権守と称したため鎌倉権五郎といつた。下伊那郡上郷村南条の白鶏山雲彩寺境内に鎌倉権五郎の墓と称する一基がある。 後三年の役…

六月一日

戸隠の社あかるし蕎麦の花 (俳諧むつの花) きようは気象記念日。明治八年のきよう中央気象台が設置された。 昔の人は自分たちの多年の経験から生み出した民間天気予報を考え出したものである。上水内郡戸隠山の西方の山中に岩下の里のあたり、据花川の辺に…