六月二十九日


   ごうせいに兵糧を喰ふ木曽の陣

            (同 八六)




 治承四年(一一八〇)高倉宮以仁王より諸国の源氏に平家追討の令旨が下つた。満を持していた木曽義仲は雄心勃々これに応じて兵を挙げ一千余騎の味方を得た。
 京都の平氏はこれを聞いて驚き、義仲を小さいときから養育して来た中原兼遠を召して大いに責めた。兼遠は木曽に帰り、根井行親に事の次第を告げたところ兼遠の子樋口兼光今井兼光も義仲を助けることになつて意気大いにあがつた。義仲は東信濃に移り、依田城(小県郡丸子町依田)に拠つて檄を四方に伝えると、信濃国中の源氏の一党のみならず近国の諸兵が馳せ集つた。翌養和元年六月、越後の城長茂は四万の兵を率いて信濃国に攻め入つたが、義仲はこれを更級郡の横田河原に撃つて越後に走らせ、源氏の白旗は威勢よく信濃の空にひるがえつた。