2012-11-01から1ヶ月間の記事一覧

十一月三十日

喰ふことも武勇も真田人にこえ (柳多留 七) 上田駅から上田城へ行くのに電車が通つている。それもかつての濠の上を回る。「史蹟上田城址」という石碑があるのに、ちと不見識ではないかの声を聞く。初めて訪れた観光客に多い。無理もないこと。しかし史跡指…

十一月二十九日

信州のゆき大阪で水になり (柳多留 六四) 膚寒い静かな夜には「十三里半」のシヤレで利かした辻行燈のやき芋が恋しいきようこの頃。やき芋でオチる落語に「真田小僧」がある。 いつもねだつてはうまい具合いに小使い銭をせしめている利口過ぎる子供が、父…

十一月二十八日

犬坊もかり屋に居るとやらかされ (柳多留 九) 上伊那郡西春近村小出の常輪寺には、工藤祐経の子犬房丸の墓がある。犬房丸が用いた膳椀などが伝わり、また近くに犬房丸屋敷跡と称する地があつて、以前はここに七抱えにも余る栃の大樹がそびえていた。これは…

十一月二十七日

女には今でも迷ふ紅葉狩 (柳多留 三) 紅葉の名所近く歓楽街が巾を利かした。正燈寺や海晏寺のすぐそばに吉原、品川が手ぐすねして待つていた。女の世界だ。 兎角、男たちは迷うのである。ついふらふらと心を動かしがち。 紅葉狩で迷つた男は江戸ばかりでは…

十一月二十六日

紅葉した顔に維茂初手油断 (飛騨桜山八幡奉額) お万の毛のようだとは髪の毛の長いことの言い廻しだ。それほど長かつた。お万は鬼女紅葉の腹心、女だてらに威勢のいいところを見せたのである。 裾花川の流れに沿つた部落、上水内郡戸隠村柵の背後の峰が鬼女…

十一月二十五日

維茂が抓めるあたりは虎の皮 (柳多留拾遺 五) 平維茂が戸隠山の鬼女紅葉を討とうとして小県郡の別所の北向観世音に祈願をこめ射出した矢が西北方さして飛び上水内郡戸隠村柵に落ちた。西よりの方を鏃八幡、北よりの方を八本八幡として勧請したといわれる。…

十一月二十四日

落葉して小家を見出す木曽の奥 (柳多留 一五一) イブモンタンが唄うシヤンソン「枯葉」をしみじみ味わうにもつてこいの季節である。 この句、繁茂していてわからなかつた落葉のあと、小家を見つけた奥深い木曽風景。 ところで長野県の生んだ天才的な日本画…

十一月二十三日

望み叶ふ迄はいのちが大事なり (田舎樽) きようは勤労感謝の日。 ひところまでは新嘗祭といつて今年の初穂を神に供える日でもあつた。 黙々と土に親しみ、土に生きる農家の人たちが、粒々辛苦のたまものをささげる記念すべき日であつたのである。勤労とい…

十一月二十二日

雪がそも其の名所の蕎麦の花 (柳多留 七七) 人里離れた高原の畑に、あたり一面に真つ白く咲いているソバの花はまことに美しい。信州の雪は有名だが、その名所の通りにソバの花が時節離れの雪のように白くて、きれいなながめだ。 ソバの原産は遠く中央アジ…

十一月二十一日

信濃もの秋も調う月とそば (田舎樽) 素朴な竹ザルに盛つてきた手打ちソバを、みじんネギを落したタレにつけて食べる味は格別だ。タレにちよつとつける程度で、ソバはよくかまずにノドを通すものという人があるが、ゆつくりかまないとおいしさがわからない…

十一月二十日

更科の手打に月の給仕盆 (柳多留一三七、一四二) 血圧降下薬ルチンがソバに含まれているというのでお年寄りが好まれ、またお昼のパン食をソバにかえる人がふえているそうだ。 二ヶ月半の超スピードで実を結ぶところから凶作のとしには大いにもてはやされた…

十一月十九日

一茶へは月と蕎麦粉の礼をのべ (慶応 元) 一茶が初めて江戸の夏目成美の門を訪れたが、あまり風采が悪いので、門人にあやしまれ玄関払いをくわされた。そこで一茶は、土産に持つて来たそば粉をふりまき、指で 信濃では月と仏とおらが蕎麦 と書いた。後に成…

十一月十八日

戸隠とおつつかつつに国をたち (柳多留拾遺 一) 戦争も終局に近い頃、大本営が埴科郡松代町西条に疎開する筈だつた。御座所も設けられた。完成したと思つたら戦争は終つた。 遠い昔、戸隠山の奥、上水内郡鬼無里村の山麓を流れる鬼無里川のあたり風光絶佳…

十一月十七日

焼けぬ日に見れば浅間も常の山 (俳諧ケイ 二三) 浅間山には、先ず噴火状態がどうなのか、それをたしかめてから登る。慎重である。だから遭難者が少い。尤も浅間火山観測所や軽井沢測候所が地震計で観測して、多年の体験から割り出した忠告が大いに物をいう…

十一月十六日

妾の兄でも兼平はきつい事 (万句合 天明元・義二) 木曽義仲をめぐる女のうちで山吹、葵と指折りかぞえて最もお気に入りというば、まず巴御前だろう。なかなか堂々として、その翳に艶なところがほの見えるうえに、一旦馬上の人になれば千軍を叱咤する勇婦だ…

十一月十五日

稲妻はもう雷電となる下地 (柳多留 九三) きようは七五三の祝い。よい門出に子供の抱負を聞こう。「ボク大きくなつたらお相撲さんになりたい」そこでお国自慢の雷電為右衛門の話をしてあげよう。小県郡東部町滋野の出身。狂歌作家として有名な蜀山人は彼の…

十一月十四日

雪の日に月の輪さがす木曽の山 (柳多留 七四) 首に輪のあるのを月の輪の熊と言い、輪のないのはイヌクマ。熊が穴へ入るのはちらちら初雪の降る頃で岩穴や木の上をえらぶ。 メスグマは利口なもので、寒中に子を産むから、赤ン坊を育てるために春先早く雪の…

十一月十三日

豊平も身をのす鷹のみさご腹 (飛騨日吉山王奉額) 鷹をならすにはまず籠の中にとじこめて水だけあたえ、それから腕のうえにとまらせることを教える。野鳥の肉を羽に包み、これを投げて飛びつかせる。鷹匠はこれをくりかえして訓練する。 上伊那郡長谷村の依…

十一月十二日

信濃路へ来てどつさりと臼を据え (柳多留 五三) 飯田市座光寺にある元善光寺の境内では、秋のかおりも豊かに菊人形展が開かれる。大正初年に生まれ、この地方の名物である。元善光寺に因んで「牛に引かれて善光寺詣り」をはじめ趣向をこらしたいくつかの菊…

十一月十一日

龍宮はなんぞか土産呉れるとこ (柳多留拾遺 四) きようは世界平和記念日だ。平和を望まない人はあるまい。そこでのんびりと浦島太のお伽噺でも聞いて、先ず心の平和をふりかえろうではないか。 龍宮へ行つた人は、たいへんしあわせだ。そのうえ、おみやげ…

十一月十日

生マつばをはき〱巴生捕られ (柳多留 一六六) 木曽義仲は朝日将軍と呼ばれたのも束の間源頼朝の軍に敗れて粟津で最期を遂げた。時に三十一歳。敗色しきりに身をさいなむとき義仲は愛人巴御前をさとして去らしめ信濃国に帰らせた。のち鎌倉に送られ、頼朝は…

十一月九日

張り替えた太鼓を和田は夜たゝき (柳多留 六〇) 巴御前は中原兼遠の娘、木曽四天王に数えられる樋口兼光、今井兼平の妹である。武勇に富み、木曽義仲といつも帷幄にあつた。多くの勲功を樹て、巴の名はあまねくそして敵を威圧した。 しかし義仲最期も近く…

十一月八日

木曽の秋雪にはなれていそがしき (田舎樽) きよう八日は立冬。冬にはまだ間があるがそれでも初氷、初霜を見て、さすがに膚冷えを覚える。長い雪の下の生活に備えて大根干し、野沢菜洗いがはじまる頃である。 これから朝晩の冷えこみはくわわる。山国信州の…

十一月七日

おしなやと呼んだを見れば男なり (柳多留 一三) 都会に就職させたあと評判はどうだろうと先生が回つて歩く。長野県人は理屈つぽい。それが求人先のきまつていう言葉だ。 理屈つぽい、よくいえば理想家肌。いいつけられても素直に受けとれず、何とか文句を…

十一月六日

やさしやな信濃が布子土賊(とくさ)色 (俳諧ケイ 六) 長野県はほぼ日本の中の中心にある。自然に恵まれているが生活環境はさほどでもない。農家一戸当りの耕地は思つたより少ないのだ。よい空気をすつて美しい高原をながめているだけで暮すことが出来ない…

十一月五日

信濃路を生きて働く赤鰯 (武玉川 七) 長野県は全国で三番目に広い県だが、この大部分が山地だ。西には北アルプス、南から東にかけて南アルプスと上信越高原国立公園が県境をつくり、南から中心部にかけて中央アルプスが切りこんでいる。汽車の窓からながめ…

十一月四日

関取と信濃を呼ばる飯時分 (柳多留 二〇) むかし信州人は集団になつてよく江戸へ働きに出掛けた。飯たき、まき割り、その他雑用でかせいだ。野暮ではあつたけれど、みんなに愛された。食うことが田舎から出て来た理由とするほどに遠慮なくよく食べたらしい…

十一月三日

孝経で大めし喰らひが唐へ知れ (柳多留 五五) 信州が生んだ昔の学者といえばすぐ太宰春台を思い出す。唯物論の先覚者の一人にかぞえられるほどだが、また横笛の名手でもあつた。七十余曲はヘイチヤラだつたという。 この句、漢の孔子伝の古文孝経が久しい…

十一月二日

しな介や御鉢の底を鳴らしやるな (柳多留 一八) 農閑期に江戸で出稼ぎして働いた人達だ。冬の間の徒食を嫌い、都会に出て都会の空気に触れ、白い米を大いに食うことが何よりの楽しみであつた。 「おいおい、しな介さんや、そうお鉢の底を鳴らしてくれるな…

十一月一日

喰いぬいて来ようと信濃国を立ち (柳多留 五) 「信濃」は信濃者を指す。呼称ではこの信濃のほかに、おしな・しな介・信濃之介・信濃守・浅間左衛門などがある。 信州の農閑期、十一月初めから二月初めまでの間を江戸に出稼ぎして大いに働いた。 川柳では信…