2012-02-01から1ヶ月間の記事一覧

二月二十八日

きさらぎの雨が踏みぬく諏訪の橋 (ことたま柳) 諏訪湖の平均深度四・五メートル、最深七メートル。上諏訪地区寄りの湖中に温泉が自然にわき出しているところがある。冬季、氷の上から湖底の温泉を掘つて囲みこれを活用する諏訪市市営の「七ツ釜」は湧出量…

二月二十七日

有りたきは江戸の佃の白雄の碑 (佃島住吉社奉額) 白魚は早春のさかなで、この句のように昔から江戸佃島の名物であるが、その名に似た白雄の碑が、佃島にありたいものものだと言い掛けた。 上田公園内に「鄙曇必与山時鳴」(ひなぐもりかならずよやまほとと…

二月二十六日

留守の戸へ子どもが来てはばらざくれ (田舎樽) 出典「田舎樽」の序文は、江戸時代のユーモア作家十返舎一九が書いている。文化二年(一八〇五)に編集されたと推定される松本の川柳作家の作品集である。半紙判二つ切り二つ折で、土器色の表紙、序文が一枚…

二月二十五日

身を捨てて名に立ち花の御ン操 (柳多留一一三) 東海道の箱根に匹敵する天下の嶮、碓氷峠は明治二十六年に開通した鉄道で、大小二十六のトンネルを抜けて越すことが出来るようになつた。 日本武尊が弟橘媛の他界を追慕せられた遺跡がこの碓氷峠にあると伝え…

二月二十四日

食ふには負ける信濃路へ武者修行 (ことたま柳) 家の屋根に白羽の矢が立つた。その家の人たちはこれを見て泣き悲しんだ。娘を人身御供で神様に献げなければならないからだ。 そこを通り掛つたのが武者修行でお馴染みの岩見重太郎だ。夜、娘の身代りとなつて…

二月二十三日

饅頭に化けて来なよと文が来る (安永八年) 逢いたい一心で大胆にも大型の蒸籠(せいろう)のなかに身をひそめ、大奥にしのび入つた男がある。役者生島新五郎、相手は大奥の年寄女中の絵島。 徳川七代将軍家継時代、恋はまかりならぬときついおしかり。新五…

二月二十二日

似せ銭で三十六字真田出し (柳多留 三五) きようは聖徳太子忌。 物騒な世の中で、ニセ千円札が横行している。新年の時事吟で「ニセ太子終りなき世のめでたさよ 佐藤守」と揶揄されたが、聖徳太子も苦々しく髭をしごくことだろう。 本句のニセモノは真田幸…

二月二十一日

信濃者につこりとして喰ひかかり (柳多留 一一) 落語に「米つきの幽霊」というのがある。信濃からけなげにも働きに出かけた男、定評通りなかなか食いつぷりがいい。胃腸をこわし医者にかかるほどになつても、おハチの底を鳴らしたがる。とうとう病勢が進ん…

二月二十日

犬のゐる所と煮売屋を教へ (川傍柳 三) 遠いところからわざわざ早太郎という犬をさがしにやつて来た。この句のように、まさか煮売屋にうろついているケチなイヌでもなさそうだ。話を聞いてみるとこうだ。お宮に怪物がいて、いけにえを出さなくてはならない…

二月十九日

まくり手の論も学びの力わざ (柳の丈競) 歴史小説について大岡昇平と井上靖が大いに論争、ジヤーナリズムをわき立たせた。 昔、これに似たいい例がある。焦点は「まくり手」。口火をきつたのは良暹法師、相手は津守国基。歌論だ。まくり手などという用語は…

二月十八日

風味よく甘し塩尻越えし酒 (出所不明) 信州の清酒は天下に響いて、現に東京にもこれを看板にした酒場がたくさんあり、大いにはやつている。この句は、中仙道を経て江戸に運ばれてゆく上方の酒をよんでいるが、いまいましいと思う人もあるだろう。信州にも…

二月十七日

兼平を兄さんなどと巴いひ (万句合 安永四・信七) 木曽福島町から木曽川をさかのぼつて二キロほどいつたところに上田の部落がある。そのはずれが中原兼遠の邸跡。 朝日将軍義仲はこの兼遠に小さいときから養育された。兼遠はのちに義仲の愛人としてうたわ…

二月十六日

雲雀毛も月毛も雲に昇る駒 (柳多留一一〇) 伝説「望月の駒」は姫と駒にまつわる悲しくも奇しき物語だ。戦国時代、望月の城主に美しい姫があつた。姫と誕生日が同じ月毛の駒も城主にとつては可愛くてならなかつた。駒は姫を慕つた。そこで城主は「約束の時…

二月十五日

身は雲水と天龍で逆らはず (柳の丈競) きようは西行忌。西行法師が諸国行脚の道すがら、天龍川の渡船にかかると、乗客が多すぎるといつて西行一人を下船させようとした。西行は聞えぬ振りをしてさからわず、怒る様子もなく立ち去つたという。 諏訪湖に発し…

二月十四日

熊坂の着物は松の脂だらけ (柳多留一二九) 長野県と新潟県の境近くに熊坂という部落がある。上水内郡信濃町になるわけだが、傍らに熊坂山がそびえ、この山は何時の頃からか長範山と呼ばれている。 この熊坂は巨盗熊坂長範の出身地。また別説によれば加賀国…

二月十三日

からさきの月はしばらくどつか行き (田舎樽) 近江八景のうち、唐崎の夜雨というのがあるが、ここでは唐崎の一つ松にかかつているので、月がしばらく何処かへ行つてしまつたようだという意。 「どっか」は、やはりを「やっぱ」と訛ると同じ信州地方の慣用語…

二月十二日

あと王手らしく継信討死し (柳多留拾遺 五) 将棋好きな人はあと王手と聞いてどんな顔をすることだろう。あと王手らしく佐藤継信は源義経のもとで落命した。 屋島の戦のとき、平家方の能登守教経が義経を船の上から強弓を引いて射んとしたので継信は真先に…

二月十一日

木曾ほどに峰を並べるお六櫛 (柳多留一二二) 西筑摩郡木祖村薮原は昔の宿場で、近くの宮ノ越、奈良井と共にお六櫛の名産地として知られていた。 「十三屋」とか「二十三屋」とかいう木櫛専門店の店を旅先で見掛けることがある。十三屋は九四屋(くしや)二…

二月十日

五右衛門びつくり権兵衛が足をふみ (柳多留 五九) いつもヘマばかりやつて肝腎なところで一喝を食わされ、呆々の態で逃げ回るまことにオメデタイ空巣ねらいの親子がある。心気一転、きようこそはと勇気リンリン朝立ちだ。親は貫録を見せたつもりで、子の方…

二月九日

武勇では一家六もん名が高し (柳多留 二五) おなじみ猿飛佐助、霧隠才蔵という忍術の達人、ほかに穴山小助、根津甚八、海野六郎それに根は正直ものだが、あわてん坊でちよいちよいしくじりを演ずる三好清海入道という面々は、いずれも音に聞えた真田幸村十…

二月八日

椋鳥が巣立ちをすると絵馬や額 (柳多留一五九) 信州出身の評論家臼井吉見の「むくどり通信」は東南アジヤ中近東見聞記であるが(森鷗外にも同名の著書がある)この書名の椋鳥は元来田舎者を嘲つて用うる言葉。常に群をなして棲息し、その鳴き声の喧騒を極…

二月七日

布奪ふ牛に老婆の角は折れ (佃住吉社奉額) 「牛に引かれて善光寺」の伝説はすでに名高い。小諸市川辺に布引観音堂、名を釈尊寺という一寺がある。奇岩怪石の巌頭にそそり立つ観音堂の由来縁起がそれである。 牛を追つかけた無信心な婆さんが善光寺にはいり…

二月六日

徳本はたのみ甲斐ある名医なり (柳多留 三七) 永田という苗字をいわず「甲斐の徳本」で名が通つていた名医。幼くして学を林羅山に受け、読書への知識を深めた。甲斐にいたときは富士山に登つて薬草をあさり、信濃に来てからは木曽山中にはいつて草木の薬を…

二月五日

権五郎目ざす敵は弥三郎 (柳多留 五八) 権五郎の墓と称する一基がある下伊那郡上郷村、白鶏山雲彩寺は夢窓国師の開山。権五郎こと平景政、もともとは相模の国の人。みちのくに藤原武衡を討つた寛治元年(一〇八七)武衡の臣、鳥海弥三郎の強弓で左眼を射ら…

二月四日

草木より湖から諏訪の春立ちて (俳諧ケイ 八) きようは立春。きびしい冬の寒さも暦のうえでは春である。しかし、なお膚冷えはしばらく続く。気分的に春が近付いてくるのだ。 前日の節分の夜はみんなで倖せを喜び合つたことだろう。むかしは節分は年越し日…

二月三日

浦島が両手に餘る年の豆 (柳多留 八〇) きようは節分。長くそしてきびしい冬の生活に明け暮れる信州では、暦のうえのことだが、あすから立春と聞いただけでも、春が待ち遠しい。 豆まきをしたあと、家中でコタツを囲んで残つた豆を自分の齢の数だけつかむ…

二月二日

泣き出すを聞いて信濃は暇乞 (柳多留 一一) 十一月、江戸へ大挙して出稼ぎに行つた信濃者も、二月二日にきまつて帰郷する。古い歳時記に「二月二日、信濃越後より旧年来り仕へし奉公人、主家の暇を得て国へ帰る」とある。

二月一日

信濃へは地ひびきがして日が当り (柳多留 一) 神代の話である。素盞鳴命が悪ふざけをするので、天照大神は怒つて天の岩戸に隠れてしまつた。一瞬世界がヤミになつた。そこで大勢の神々が集まつてよい知恵をしぼることになつた。うまい具合に大神がちよつと…