2012-01-01から1ヶ月間の記事一覧

一月三十一日

去年来た信濃で道の世話なし (川傍柳 三) 長野県を東洋のスイスに――という言葉がある。山紫水明、高い山あり清い川がある。それに精密工業が盛んなところから、このキヤツチフレーズが生れたのであろう。自然のきびしさ、冬の長いこと、それが信州の産業と…

一月三十日

鳥の骨しなのに聞けば捨てました (柳多留 七) 若気の至りで、自分の故郷がやたら無性にきらいになつて、ぽいつとよその土地に移り住んで数十年、やつと分別盛りになると、澄んだ大気、高い山、青い空の故郷をなつかしがる。信州人のそんな経験をよく聞かさ…

一月二十九日

猫を追ひ出して信濃は焚きつける (安永四年) 長野県人は負けずぎらいだという定評である。だから何でも日本一を数えあげたがるようだ。それに理屈つぽいということもあげられる。信州の冬は長く、きびしい。その間、読書をする。理論をたたかわす。いいに…

一月二十八日

椋鳥を見付け客引綱を張り (新編柳多留 三) きびしい気候と貧しい信州人の性格をかたちづくる。この貧しさからぬけ出そうとして大都会にゆく。ガツガツして、ガリ勉型の代表みたいな信州人が出来あがる。だから、ばかげた無条件な情熱がわかぬ。その半面、…

一月二十七日

六人の内で貞光手盛にし (万句合明和元・義二) 物語で名高い大江山の酒呑童子は名前通りに酒が大好物だ。近国の人民を屡々悩ませていたのを源頼光は四天王の渡辺綱、坂田公時、卜部季武、碓氷貞光と一人武者の平井保昌と協力して首尾よく酒呑童子一味を退…

一月二十六日

盗人の兄嫁歌が上手なり (柳多留 二九) 平安朝の女流歌人和泉式部は諏訪市中洲の金子で生れたという俗説がある。式部の誕生地はここばかりでなく、西は肥前から北は陸中にわたつている。 当時、観念的な歌のなかにあつて、和泉式部は自由奔放、いわば恋愛…

一月二十五日

薄雲高尾美女の名剣 (俳諧ケイ二〇) 埴科郡坂城町南条の鼠宿出身に名妓薄雲と凶賊児雷也がある。 嬌名を謳われた薄雲は元禄年中にこの世を去つたが、その遺物は郷里である龍田山耕雲寺に打敷になつて保存され、山東京伝の「骨董集」に紹介されているほど名…

一月二十四日

筆捨は松杖捨は行者越 (柳多留 一三二) 夏はキヤンプ、バンガロー。冬はスキー、スケートというのは観光地の定石。そのひとつ茅野駅からバスで一時間、白樺湖はその名のように白樺や落葉松の林が美しく迎えてくれる。上高地の大正池を連想させるほどに湖の…

一月二十三日

手にのせて飯縄でしごく焼火箸 (俳諧三国志) 「天狗の麦飯」をご存じであろうか。長野市芋井の飯縄山の頂上から少し下つた所に湿地帯がある。黄褐色の少し膠質の麦飯に似たもので、ちよつと見たところ栗飯のようでもあり、その味は麦飯変るところがない。 …

一月二十二日

京織と木曽の麻衣巾合はず (入舟狂句合) 木曽という地名のいわれについては昔からこの地が麻の名産で知られ、麻を曽とよみ、「生麻」と名づけたという説がある。 また、奥の山里は男女ともに麻衣を常着にし冬も夏もこれを用いるほどだつたから、麻を作る家…

一月二十一日

真田軍記をうつしてる上田流 (柳多留 一〇三) 上田城の旧本丸の跡に真田の隠し井戸というのがある。天正十一年(一五八三)真田昌幸が築城に際し、秘密の穴としてこの井戸を苦心して掘り抜いたといわれ、ぐつとのぞいて見ると十メートル余り、さらに水面下…

一月二十日

だまされて磨墨の腹くびれ込む (万句合天明二、松一) 寿永三年(一一八四)正月、源頼朝が木曽義仲追討のとき、佐々木四郎高綱は頼朝の愛馬生月に鞭打つて宇治川の先陣に梶原景季と覇を争つた。景季も頼朝の名馬磨墨だつた。河の中程で「貴公の馬の腹帯が…

一月十九日

諏訪の湖雪コン〱と渡り初め (柳多留 九四) 諏訪湖の御神渡はまたもうひとつ、諏訪明神のお使いである狐の所為で、これあつてからはじめて人馬が氷上を往還出来るのであるという説もある。これは狐聴氷という詩句にこだわつた後人のひがごとであるともいう…

一月十八日

薄氷はふまでめでたし諏訪の海 (柳多留 一〇五) 諏訪七不思議の随一に数えられている「御神渡」は一月、湖面が氷結してのち、夜の温度が急に下がるので氷が大きく収縮し、南北に湖を横切つて裂目が出来る。その裂目の水も結氷するが、暖かくなると膨張し、…

一月十七日

信(まこと)ある州(くに)には薄き氷なし (柳多留 五六) 江戸より奉納する句だから信州というべきところを誠ある国と儀礼化している。松本の天白社に額面奉納した句。 この句のように作家は江戸の地にいて諏訪湖をうたう場合、実際に遊歴した見聞の基礎…

一月十六日

浅間のぬけた跡かえと諏訪で向き (柳多留 二七) ずんぐりした浅間山が一夜のうちに出来あがつたので驚いたが、同じ信濃国で諏訪湖がぽつかり出現して二度びつくり。 富士山と琵琶湖が孝霊五年にデビユーしたのと好一対である。いずれも年代記に見える説話。…

一月十五日

鹿之助まだ角髪で磨く芸 (嘉永三) きようは成人の日。各地で希望にあふれた成人式が行われる。そんなとき年若い十六才で尼子家に仕えた山中鹿之助を思い出す。 山中鹿之助は尼子十勇士のひとり、南佐久郡南相木村の相木森之助幸雄の子に生まれ、母は更科。…

一月十四日

友だちが来ると言つてく男の子 (田舎樽) 三九郎というのは松本平だけで、「どんど焼き」「左義長」「せいの神」ともいわれ県下各地に風習を残している。 七才から十四、五才の子供たちは松過ぎになると家々を廻つて門松を集める。年上の子供が親方、親玉、…

一月十三日

雷電谷風なりひびく耳の底 (柳の丈競) 一月場所大相撲、ヤグラ太鼓は威勢よく鳴り渡る。寒気を吹つ飛ばす龍虎相博つ裸稼業の甲斐性は美しくまたきびしい。 昔の相撲ですぐ頭に浮ぶのは雷電為右衛門で、小県郡東部町滋野の生れ。角界お国自慢に指おり数えら…

一月十二日

はるかではなし義を詰めて送る道 (里童追福会) 塩市のいわれにも異説がある。 松本地方に塩の輸送を断つたのは、今川氏ではなく武田信玄であつたのだ。というのは当時この地の大名は小笠原長時で信玄はしばしば攻めていたが、その戦果のあがらぬのに業を煮…

一月十一日

せちがらい軍(いくさ)北条塩をとめ (柳多留 八四) 川中島合戦で知られる通り越後の上杉謙信甲斐の武田信玄は好きライバルであつた。 もともと甲斐では塩を東海地方から取り寄せていたところが駿河の今川氏は相模の北条と相謀つて戦略上、塩を送ることを…

一月十日

どこまでも信濃に冬は家がなし (万句合宝暦一二、桜三) 立て廻す高嶺は雪の銀屏風 中に墨絵の松本の里 松本を詠み込んだ江戸時代の狂歌堂真顔のうたである。 小説家菊池寛は文芸講演会でこの狂歌を採り上げたが、あまり賞めなかつた。 きびしい寒さと白一…

一月九日

蘇民見て鬼神子孫の門を除け (新編柳樽 三一) 大昔、素盞鳴尊が備後の国靹の浦を通つたとき、巨且将来に宿泊を頼んだがことわられかえつて貧しい兄の蘇民将来が栗の餅をついて歓待してくれた。 尊はこれを喜ばれ「今後悪疫流行のとき、お前の子孫であると…

一月八日

古の煙かすかな国分寺 (新編柳樽 二七) 柳の木で上部のくびれた六角塔形を刻み蘇民・将来・子孫・人也・大福・長者の十二字を赤面で一面ずつに書き記した「蘇民将来」は正月八日、上田市神川の浄瑠璃山国分寺で頒けられる。 昔から仏縁の日とされている八…

一月七日

諸国から行つてぬかづく臼の弥陀 (柳多留 一〇六) 仏さまのなかでも、びんずる尊者は病気をなおすのが一番うまいとして、多くの信者が集まるだけにこの?病気の仏さま?は平素目や鼻がなぜられ殆ど形がなくなつている。 一月六日、善光寺の正月行事として?お…

一月六日

川中へ車を出す越後勢 (柳多留 一一五) 上杉謙信の越後勢が得意の神得流車懸りの陣を構えて武田信玄の甲州勢に対した。文禄四年(一五九五)九月、川中島合戦譚は血湧き肉躍る。 この川中島合戦で農民が田畑を踏みあらされて生活に困つているのを見かねた…

一月五日

剽軽な信濃は獅子の足に住み (万句合安永元、松四) 太神楽の獅子舞の後足に雇われて、町中を門付して歩いていた信濃者。飯焚き、薪割りが出稼ぎの職場の通例なのに、獅子舞の後足とはまことにヒヨウキンものだ。愛すべき信州人である。 宝船 信濃者の飯焚…

一月四日

土までは掘らぬ木曽路の松飾 (柳多留 七八) 雪深いので松飾りはちよつと挿しておけばこと足りる木曽路のお正月。 門松といえばお正月の飾物と思われているが、むかしはお正月の神さまが降りてくる目じるしと考えられた。だから今でも飾るのは必ずしも松に…

一月三日

雪国は御慶も破風へ申入れ (万句合宝暦八・鶴一) 新しい年を迎えた喜びの挨拶をするとき、雪深い信濃では玄関ではとても出来そうもないと大袈裟に想像した句。 松本地方では新春の神棚に供える神酒どつくりに「おみちのくち」を挿し込んで飾る。長さ三十セ…

一月二日

みじかくながく手まくらのゆめ (田舎樽) うたた寝の手まくらの夢は短かくもあるがまた手枕の割りに長かつたと感じたのである。それは人生にも似た感懐であろう。 夢といえば初夢がある。正月二日の夜、宝船の湯の絵を買つて枕の下へ入れて吉夢を願う。夢の…