2012-04-01から1ヶ月間の記事一覧

更新情報

民郎著『川柳の話』(1947.09)を1945.08.01〜20の日付で更新。 更新に関する解題を冒頭日に付した。 1985年1〜6月、更新。

四月三十日

死ぬと直がすると親和をむごい評 (柳多留 一六) 書画に対して鑑賞するだけの心がまえと、いつか値が出るだろうという蓄財の割り切つた考えかたを持つ二つの方法がある。いずれがよいか、それは全く自由で、作者すらきめつけることは出来ないだろう。 三井…

四月二十九日

船頭の綱わたりする丹波島 (柳多留 七三) 木曽路に源を発する奈良井川と梓川を合流した犀川が、もう少し下流すると千曲川に合わさるあたり、更級郡更北村に丹波島というところがある。 十辺舎一九の『続膝栗毛』九編には「それより、丹波島を打すぎ、犀川…

四月二十八日

祭から戻ると連れた子をくばり (柳多留 一) 長野電鉄屋代駅から二つ目に雨の宮駅がある。いまは更埴市になつているが、ここの日吉神社は猊踊りといつて四月二十八日行われる。「信濃奇勝録」にその扮装が出ているくらい古くから伝わる踊りである。 そもそ…

四月二十七日

木曽駒の荒れ福原の花が散り (新編柳多留) 木曽馬は、からだは小さいが粗食でよく働き、柔順で女、子どもでも扱えるのが特徴。わが国の代表的な小型馬として知られる。現在、木曽谷には約千二百頭の木曽馬がいるが昔ながらの体型を保つ純粋種はメスが十五…

四月二十六日

蝶の夢書いたは平家物語 (柳多留一一二) たのしそうに蝶が飛んでいる。春を謳歌するように。 平家の紋は蝶である。一の谷にも、屋島にも、また壇の浦にもひるがえつた平家の赤旗には蝶の紋がつけられてはいなかつた。平家も源氏も同じように蝶の文様を用い…

四月二十五日

鞘の毛をむしつて静叱られる (柳多留 三二) むかし、奥州へ落ちのびた源義経の後を慕つて静御前は信濃路に入つた。松本のあたりで土地の者に「奥州はどこでしようか」と聞くと平素、大塩をオウシユウと訛つているのでそこを教えた。さてこそ義経と逢える嬉…

四月二十四日

づくなしの世とはなりけり山ざくら (田舎樽) 「づくなし」は信州方言だが、必ずしも信州だけではなく、所によつていろいろな意味で使われている。 しかし意味はほぼ、だらしない者・いくじなし・臆病者・不器用・怠け者などを指すようである。 同系語に「…

四月二十三日

饅頭になるは作者も知らぬ智恵 (柳多留 一) 上伊那郡高遠町は伊那市からバスで二十分美しく舗装されて近代化したとはいえ、まだどこかひつそりしたおもかげが残つている。城下町高遠の印象である。 花ぐもりいささか風のある日なり 昼野火もゆる高遠の山 …

四月二十二日

つながれる象もまんざらやぼでなし (田舎樽) ぬばたまの黒い女の髪がぬらぬらと心にかみつく。〈女〉のさがである。 日本のロダンといわれる彫刻家の萩原碌山は南安曇郡穂高町出身。その傑作に「女」がある。絵を学ぶために二十三才で渡欧、ロダンを屡々訪…

四月二十一日

小笠原壬生狂言の元祖らし (群燕) 京都壬生寺では毎年四月二十一日から五月十日まで本堂の舞台で無言劇を行なう。鰐口と太鼓、笛の伴奏によるいまのパントマイムである。円覚十万上人が融通念仏の功徳がだれにでもわかるように公開したのがこの狂言の始り…

四月二十日

山ざくら誰に見しやうとのこるらん (田舎樽) 「田舎樽」の序文を書いた十辺舎一九著わす「続膝栗毛八篇」の松本あたりの挿絵の賛は高美屋甚左衛門である。その狂歌のなかに「城山の」とある。いまは城山公園となつていて観桜蔵に散策に好適地。安曇平を隔…

四月十九日

花咲けば諏訪の親類遠くなり (柳多留 二) 諏訪郡富士見町富士見高原に島木赤彦の歌碑がある。楷書万葉体、斎藤茂吉の揮毫に成るもので、碑陰に昭和十二年十月建之 久保田俊彦先生追悼謝恩会とある。 みづうみの氷は解けて尚寒し 三日月の影波にうつろふ 「…

四月十八日

大阪へ昌幸かけをはつて置き (安永八年) 開国論をとなえて進歩派だつた佐久間象山は当時として創意工夫の先覚者でもあつた。写真機、電気、医療器の製作、漢方薬の研究電信機の実験など多方面にゆきわたつた。 きようは発明の日。 埴科郡松代町は象山の生…

四月十七日

こきまぜて木曽路のさくら時鳥 (田舎樽) きようは家康忌。 いわゆる経営学虎の巻のブームに乗つて徳川家康はスポツトライトを浴びた。わが意を得たりとばかり、にやにやほくそえむことであろうか。 織田信長は「鳴かずんば殺してしまへほととぎす」豊臣秀…

四月十六日

盃の桜で悟ひらくなり (柳多留 六一) 桜のたよりを聞かされるよい季節。パツと咲いたはなやかさにくらべて散るときのさびしい風情を知るひともあろう。 今から八百年ほどむかし、筑前国の加藤左衛門尉重氏は、春の酒宴に折から桜の花が散つて盃の中に落ち…

四月十五日

諏訪の池橋を桜が来てはずし (師恩月花集) 葛飾北斎の富嶽三十六景は有名であるが、そのなかに諏訪湖がある。弁天島を前景に湖の浮城としての高島城を隔てて富士山が遠望される。一隻の漁舟が印象的である。諏訪湖の広々とした景観が展開されている。信州…

四月十四日

諏訪の橋水に戻ると花が咲き (柳多留 三七) 塩尻峠から眺める諏訪湖は素晴らしい。四季を通じて変化に富んだ景色は大いに目をたのしませてくれる。琵琶湖や支那の洞庭湖になぞらえてつくられた諏訪八景がある。 春では衣ケ崎の逆さ富士、守矢の残雪。夏で…

四月十三日

徳のある本道は苗字が知れず (柳多留 二五) 石川啄木の歌稿「陰気なノート」をまとめて第二歌集「悲しき玩具」を刊行したのは歿後のことである。きようは啄木忌。 そんならば生命が欲しくないのかと 医者に言はれて だまりし心! 診断を受けての偽らないつ…

四月十二日

諏訪の橋板天龍へ春流れ (新編柳多留一四) 天龍下ればしぶきに濡れる 持たせやりたや檜笠 諏訪湖に端を発する天龍川は、木曽山脈と赤石山脈との間を流れて、伊那盆地を過ぎるといわゆる天下に知られた天龍峡となる。このあたり両岸相せまつて、急流しぶき…

四月十一日

霞に出来桜に消える諏訪の橋 (柳多留 七四) 諏訪湖は大昔の地殻の変動によつて生じた地溝帯中にできた湖水で、あこや貝の殻に似た形をしているが、昔ははるかに大きく南北に細長い湖であつた。支那の太湖によく似ているところから、太湖の別名である【我頭…

四月十日

雪にかけ霞にはずす諏訪の橋 (柳多留 三三) 諏訪湖は、東と北を八ケ岳と霧ケ峰に、南を明石山脈に囲まれた盆地の西北のすみにある。海抜七五九メートル、面積約十五平方キロ。八ケ岳火山の噴火物で盆地の南方がせきとめられて出来たものであるという説が一…

四月九日

のどかさや諏訪の親類遠くなり (柳多留 五六) 岡谷王国を誇つた製糸業が没落してから諏訪湖周辺の産業は一変した。光学機械、オルゴール、時計、写真機、医療器具などの精密工業が目ざましく発展している。日本のスイスといわれ、土地の澄んだ空気と、人び…

四月七日

年四十飯綱の法を譲るなり (俳諧年こもり) きようは世界保健デー。 人間はいつも健康でありたい、そしてよい仕事を成し遂げたいと願う。そのうえ長命ならこれに越したことはない。生きて恥多しなどとけむつたがることはよそう。 飯繩の法術の始祖伊藤タ忠…

四月八日

善光寺紋も如来の立ち姿 (柳多留一五三) 長野駅前に清らかな噴水に囲まれて美しい姫の像が立つている。あれが如是姫である。お釈迦様と同時代に月葢という長者があったが、実はその娘で、善光寺に向つて花盤を捧げている姿だ。 月葢はもともと貪欲で慈悲の…

四月六日

蓋明けた後釣竿を杖につき (柳多留一六一) 木曽は山のなかである。まさに木材王国。木曽五木といえば檜を初めとし、椹、明檜、槇、ねずこで、これが多量に伐り出され江戸時代初期の城郭建築ブームに大活躍をした。木曽川を中乗りさんが筏下しでたくみにあ…

四月五日

鶯に二の足をふむ諏訪の池 (柳多留 七三) 諏訪湖の氷がとけると、目が覚めたように漁舟が動き出す。単位面積の漁獲高は全国の湖沼中の第一である。コイ、フナ、ウナギ、エビ、モロコ、ワカサギなどでほとんど人工孵化、放流、養殖で、いずれも他県から移殖…

四月四日

鶯は上手に歩く梅の上 (川傍柳 四) 春の庭に咲き出した紅梅に向つて、「私の気持がわかつてくれるなら、どうか実を結ばないでほしい」と、ひそかに祈つている人がある。うれしそうな鶯の可愛さも目にうつらない。 源頼朝が善光寺参詣の道すがら見初め、鎌…

四月三日

づくなしによけい見らるる梅の花 (田舎樽) 最近の傾向として言葉の生活が標準化してゆく。だが、それぞれ地域社会に持つ生れた言葉というものが、実際の場で生きつづける。それは方言である。 自然発生的な或いは文化的な環境のうえでまた気質、体質からも…

四月二日

春過ぎて夏きに開く木曾の梅 (柳多留 一四〇) 長い中仙道のうちで最も高い山にせばまれた深い渓谷といえば木曽路。 贄川から始まつて奈良井、薮原、宮ノ越、福島、上松、須原、野尻、三留野、妻籠、馬籠が木曽十一宿。 島崎藤村『夜明け前』の一節に「山里…