六月十一日


   上田の古着大阪の晴れ着なり

           (柳多留 八四)




 智将名将かずあるなかでわが信州が生んだ真田三代は誇りのひとつ。
 上田城を築いた真田昌幸はその子信之に徳川家康の養女を貰つた関係で、関ヶ原合戦のとき親子敵味方に分かれねばならなかった。
 徳川秀忠の大軍が上田城を攻めたとき、昌幸と幸村の父子は智謀勇略をめぐらして大いに戦い、関ヶ原合戦に遅らせて秀忠をあわてさせた軍談はまことに痛快だ。
 その後、幸村は大阪冬の陣で奮戦したがそれを上田縞にたとえ、着飾つた男らしい武者姿をこの句は写しとつている。