六月二十一日

   福島市松名で聞くと強くなし

          (柳多留 一二七)




 豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍の髄一として雷名を轟かせた福島正則も、幼名は至つてやさしい市松。
 その後、九州陣・小田原陣・朝鮮役などに高名をあらわしたが、秀吉歿後、徳川幕府の嫌忌にふれ上高井郡高山村高井の堀の内に配流された。悶々のうちにこの地にあること五年、治水事業を起し、或いは新田の開発につとめたが寛永元年(一六二四)七月十三日、六十四歳で逝去。舘趾は長野県史蹟となつている。
 当時、大名は自家開基の寺を持つのが慣いであつたが、正則は謫居の身であるので、すでに寺門の確率していた上高井郡小布施町都住の雁田にある岩松院を菩提寺とした。