五月十九日

   しらなみのうわさ式部が来るとかや

              (柳多留 二一)




 諏訪市中洲の金子というところの百姓の一人娘かねは、幼いとき両親に死に別れ下諏訪のとある家に奉公した。あるとき主人の機嫌を損じて額を焼かれ火箸で打ち叩かれた。痛さに堪えかねいつも信心する地蔵尊の前でおすがりしたら、菩薩の額よりたらたらと血が流れているではないか。自分は傷ついておらぬばかりか、前にも優る美人となつた。
 縁あつて大江雅致の娘となり、和泉守橘道貞の妻として和泉式部と呼ばれた。和歌に長じ、平安朝の情熱の歌人となつた。信濃国地蔵尊が忘れ難く都にうつして守本尊として信仰したが、女の子の小式部内侍が早世したので世をはかなみ尼となつて一生をおえた。のち幾星霜、鎌倉の最明寺時頼が式部の草案に宿泊、地蔵菩薩のお告げではるばる本尊を背負つて信濃国下諏訪の聖衆院に納めた。今の来迎寺である。
 もともと和泉式部の出生地はここだけでなく諸説あり、本句、大盗袴垂保輔は式部の夫藤原保昌の弟であつたという。