十二月十六日


   行衛定めず営中を出る清水

           (しげり柳)



 木曽義仲は子の義高を鎌倉に人質として送るときいましめて「お前は頼朝によく仕えて決して逆うことあつてはならぬ」と、その臣海野幸氏を従行させた。頼朝は娘を義高の妻として嫁がせたが、義仲追討の院宣が出てからがらりと態度を変え、義高をなきものにしようと計つた。
 そのことを妻から聞き愕然、ひそかに営中を脱出したが、頼朝何でのがそう、大いに怒り堀親家を遣わせて武州入間河原に捕え斬つた。寿永三年(一一八四)四月のこと。
 かくて義仲とその一党は悉く亡びた。義仲死して一年二ヶ月の後、寿永四年三月、平家も亦西海に沈んで、天下は全く鎌倉の頼朝の手に帰した。