惡いことよしなと巴首をぬき
(柳多留拾遺 五)
寿永三年(一一八四)正月、木曽義仲は戦利あらず三条河原に敗れて従う者僅かに十三騎。更に主従七騎となつたときも巴御前は残つて奮闘した。
粟津の手前の関寺では、追手に向つて来た内田三郎家吉という六十人力の豪のものと馬上に組んでその首をねじ斬つた。
義仲はその獅子奮迅振りを見て思うよう、「自分は誰の手にかかつて死ぬかも知れぬけれど、女子に先陣をかけさせたといわれるのは恥辱である」と。
巴はこれを聞き信濃国に帰つて行つた。のち捕えられ鎌倉に赴き、殺さるべきところを和田義盛が申し受けて妻として許された。