うちわ

 「暑くなったわね。そろそろうちわがほしい頃だが、いまにどこかで持って来てくれるだろう。それが待ち遠しいよ」
 出入りの商店の顔馴染みが、暑中見舞のご機嫌伺いに、家ごとに配ってくるのをあてにします。
 名入れのうちわを手にして、やっと夏らしい気分になる今日このごろです。涼しそうな風景、肩膚脱いだ江戸美人など図柄はいろいろですが、なかに渋うちわがあったりして、これはお勝手手元に欠かせない小道具でした。煮物をする時、お風呂を焚く時、これでバタバタとやった経験はおありでしょう。
 浴衣での夕涼みはうちわときまっています。縄手通りの夜店をひやかしにゆくそぞろ歩きは、夏の風物詩です。これを何よりのたのしみにしている人も多いことと思います。
 うちわは、ただ単に涼をとるだけのものではありません。殿上人の儀式用として使われたり、あの武田信玄上杉謙信の打ち振る太刀を危うく防いだ軍配うちわにも使われた歴史があったのです。それが一般家庭に普及したわけで、江戸時代は絵店で錦絵のうちわを売っておりまして、またうちわ売りが、竹二本にうちわをはさむ恰好で、呼び声を張り上げて行商したものでした。
  うちわ売り風の吹く日は昼寝をし   (苔翁 明和元年)
 あまり風が吹く日は商売にならないので、ゆっくりくつろいで昼寝して時を稼いでいる様子です。
  「暑い暑い、どふもたまらぬ。長吉あをげあをげ」「ハイ」と団扇の柄をしやげるほど握りしめ、力にまかせてあをぐを「オゝもふよい。涼しうなつた。ヤレヤレ汗はどこやら往た」長吉「ハイ皆私へさんじました」   (新撰噺番組・安永六年)
 あおぐ方と、あおがれる方との違いです。あおぐ方が愚痴っぽくボヤクのではなく、さらりっとかわしたつぶやきが、そのまま涼感味を誘いこみます。
  団扇では憎らしい程たたかれず   (柳多留 一)
 痛くもないところに、思わせぶりな男女二人のやりとりが浮かびます。
 みずうみを背景に、うちわを持った佳人のゆかた姿を描いた「湖畔」は、近代洋画の確立者である黒田清輝の明治三十年の代表作。山と水と人とがひとつに融和して、静かで落ちついた明るさに満ちています。