相撲興行

 大相撲の地方巡業は、たいてい深志公園の広場でした。今は市民会館や放送局の建物があって、あそこが大きい広場だったなんて、とても想像ができません。
 広場の南には池があり、小高いところにキナパークという活動写真館がありました。広場の西側は、南深志の各町内の祭典用の舞台をいれる蔵がズラリと並んでいました。深志神社のお祭りのときは、この広場は見世物小屋でうめつくされたものです。
 お祭り以外の日はあいており、野球や庭球をやったりしていました。大相撲の興行にはうってつけの広場。興行は一日でしたが、朝早くから櫓太鼓が勇ましく鳴りひびきました。この音が北深志まで聞こえてきて、相撲ファンにとっては、じっとしていられない快音の誘いであります。
 相撲興行はもともと神社への奉納行事で、今から三百年昔の貞亨元年、徳川幕府寺社奉行の英断で勧進寄相撲興行の許可がおり、江戸深川八幡境内で初めて行われました。相撲といえば深川八幡と幕末まで決まっていました。
  角力(すもう)好き女房に羽織ことわられ   (柳多留 二)
 勝つとひいきは羽織を投げ、あとでチップと引き替えることになっていました。女房に「羽織を投げないでね」とたしなめられる図です。
  伝統の四本柱も客に負け   愁子
 昭和二十七年九月の秋場所から、取組みがよくみえるように四本柱が廃止されました。
  土俵入負けるけしきは見へぬなり   (柳多留 一五)
  君が代を知らぬ子供の相撲ずき   清風
   角 力 取●
  角力取来るたびごとに勝つたはなしばかりする故「なんと、勝つ噺ばかりせずと、貴様の負けたはなしもありそふなるもの」といえば、角力、ぬからぬ顔で「負けたはなしは余所でいたす」  (金財布・安永八年)