へぼ将棋

 アララギ派歌人土屋文明が大正十一年松本高女の校長で赴任、二年間松本にいました。一風変わった気骨のある方だったようです。気軽に職員室に顔を出しては、トランプに興じて談笑し、机に腰をおろし、足をブラブラさせているのがつねのようでした。
 そのころ、小里文子という話題の多い女学生がいました。初代松本市長小里頼永の次女で、川島芳子ととても仲好しでした。
 芳子はのち「男装の麗人」とか「東洋のマタハリ」といわれた清朝末期の粛親王の子です。大陸浪人の川島浪速(松本藩士の子息)の養女として東京から連れて来られ、松本高女に通っていました。
 芳子は学校の行き帰りには凛々しく馬に乗って人の目をうらやませたものです。女だてらに乗馬する姿は市民の間でも話題でした。戦後の昭和二十三年、日本軍に協力した理由で処刑になり、四十一歳で消え去りました(替え玉説もあるとか)。
 文子は女子大を卒業して後、文藝春秋社に入りました。文藝春秋といえば菊池寛の名をすぐ思い出しますが、恋愛小説で人気の高かった寛のところへは多くの文学女性が集まりました。文子もその一人でした。
 案の定、若い作家と文学女性の間には、おおらかな情感をただよわせたものでした。横光利一と同棲したといううわさも、松本に流れてきました。でも佳人薄命、彼女は昭和十三年に三十三歳で亡くなりました。
 ところで菊池寛の将棋好きは有名です。将棋大会をお正月にはきまって開きました。賞品が出されましたが、弱い者には賞品が回ってこないものですから、参加賞にネクタイをくれたそうです。
  晩あたりちっと来給へどれも下手   (柳多留 三)
  先づ盤の足を捻じこむ下手将棋   (柳多留 三)
  下手将棋袖をひかれてなめ廻し   (柳多留 六)
    下手将棋●
  上州館林のほとりに、打続くなが雨にふりこめられ、つれづれのあまり将棋の相手を乞ひければ、所のもの一両人来たりてさしけるに、江戸もの、相手かはれどぬしかはらず、何番させども手は出ず「これ御亭主ヤ、いまみえられた人々は、さだめてこの土地での指をりであろうの」「いやさしならひでございます」「はてな、もつと弱いのがあらば呼んで下され」「イエもうございませぬ」「ハテ不自由な所だ」   (珍話楽牽頭・明和九年)