七五三

 子供たちの集まる場所を知っていていつもの時間に来る飴細工のおじさんが、街の片隅でせっせと飴の技芸品をこしらえてゆきます。それを見るのがとても楽しみでした。
 炭火で温められ、やわらかくなった飴をヨシの軸につけて、息でふくらましたり、伸したり、引っ張ったり、ときどき鋏を入れ細工しているうちに、鶏になり、馬になり、達磨になります。そして、青や赤の彩色がほどこされると、出来上がりです。
 また、べっこう飴のおじさんも来ました。白ザラメ、赤ザラメ砂糖を煮つめて、これを桜の花、梅の花などいろんな金型にたらしてゆきます。固まったころ、型から抜いていくつも並べます。その飴の色は見るからに舌にとろけそうで、子供たちをとてもひきつけたものです。
 おじさんばかりでなく、飴売りのおばさんも通りました。頭に輪をくくりつけ、その上に売る飴と風車や小旗が入っている平たい桶を乗せ、そして柄のついた大きな太鼓をたたきながら売り歩いてきます。
 「飴だ、飴だよ、おいしい飴だよ」といったような唱い文句につられて、戸外へとび出す子供たちはたちまちおばさんのまわりをはしゃぎまわります。これも大正の末ころまでのことでした。思えば五十年も昔のことです。
 七五三のお祝いの日に、子供たちは手に手に千歳飴の細長い袋を持ち親と一緒に連れ立ってゆく風景に出会います。十一月十五日です。
 この千歳飴にはこんないわれがあります。元禄宝永の頃、江戸浅草に七兵衛という飴売りがいて、その飴を千歳飴といい、また一名「寿命糖」ともいいました。長い袋に入れた飴に千歳飴と書いているのは、この七兵衛が始まりです。
 「男女三歳の髪置き」とか、「男五歳の袴着」とか、「女七歳の帯解き」とかいう習俗、時代がたつにつれ、いろいろに変わっています。七歳、五歳、三歳という歳ばかりでなく、四歳、九歳でやるところもあったそうです。それが今日のように七五三に定着するようになりました。
  七五三かくてこの子も人の母   夢助

二十六夜神

 松本城の二十六夜神の例祭は十一月三日。三石三斗三升の餅を献上する餅つきの神事は、古式にならって行われます。二十六夜神は松本城の安泰、加護の守り神で六階の梁の上にまつられていますが、御神体は煙草の根であるとか。
 全国にはいくつかのお城がありますが、どの城も申し合わせたように「妖怪変化が出現した」といういい伝えを持っています。それは狐や狸のいたずらではないか、と想像していたようですが。
 狐や狸にだまされて、とんだ目に遭う昔噺はご存じでしょう。ですから、狐の窓、つまり「両手を組み合わせて狐窓を作り、それですかして見ると狐は逃げてしまう」とか、「遠くの方に狐火があちこち光って見えるときは、よく注意して自分の前をたしかめると、そこに狐がうずくまっている」という俗言ありました。
 だまされたときは、「ゆっくり腰をおろしてから、落ち着いて煙草を喫うと狐は逃げ出す」ともいわれます。そうしたことから、二十六夜神の御神体を煙草と結びつけることができます。
 狐狸ばかりでなく、落語の「田能久」では、大蛇が嫌いなものを打ち明けるくだりがありますが、煙草をあげています。煙草の持つ強烈な嗅覚の効果を見る思いがします。
 ところで、いま私たちのまわりには愛煙家もいれば嫌煙家もいます。愛煙家は「煙草をのんでいるとき、とつぜんいい考えが浮かぶことがある」とか、「疲れたあとの一服は何ともいわれない」と、その醍醐味を讃美します。
 「あれほど不健康で、はたの迷惑を考えない煙草の公害は、我慢がならない」というのが嫌煙権運動の人たちです。それぞれ意見と主張を聞くだけのことはあります。
 道に迷って竹林の中をどうしても抜け切れず、方向を失った婦人が、たばこの紫煙で助かった話が新聞に出ていました。その人は夢中でさまよっているうちに、沢伝いに下り、疲労と心細さでもう駄目だとあきらめていたとき、かすかににおってきたたばこの香り。一服したたばこの煙が風に乗って流れて来たのです。
  たばこ屋を遠く女が待っている  芽十

白菊黄菊

 松本市民祭は回を重ねるごとに華々しく行われます。市民みんなの生活の豊かさを象徴するような恒例のお祭りです。
 文化の日をはさんで、十一月の秋の澄んだ空の下、芸術文化祭、商工観光まつりなど部門別の催しものは、市民それぞれの活気でみち溢れることでしょう。
 お城まつりには松本城菊花展があり、【けん・女へん】を競っていくつかの菊花が並べられます。こうした菊の愛好者の会が初め中央公民館(もとの公会堂)前で開催されてから三十数年になります。
 むかし公会堂前の広場へ、自慢の菊の披露を見にゆき、電灯に輝くまばゆい豪華さに魅了された記憶があります。秋の夜の膚寒さをふっと覚えて、菊の香にひたった幼い日は、もっと前だったのでしょうか。そんなとき菊人形が珍しく、歴史的人物のその名にふさわしい出し物に目をそそぎました。
 菊人形は、文化九年の秋、江戸巣鴨の染井の植木屋が作り出したのが始まりだそうです。大変な評判、それを真似てあちこちで菊細工がひろまりました。
   さかりなるうわさをさくや祖父婆も杖にすごもの花の見物   味噌こしきぶ
 当時の狂歌にあらわれるほど菊に人気のあったことが偲ばれます。
 菊は観賞用のほかに酒にひたすと延寿の効があり、食べて頭痛をなおし、目を清くすると昔からいわれてきました。先日、東北地方の川柳仲間から「菊ノリ」を送ってもらいました。説明文によると、この乾燥した菊ノリを熱湯にもどせば、馥郁【ふくいく】とした香味がただよう――とあり、やってみると、なるほどえもいわれないかぐわしい匂いが流れてまいります。
 黄菊の花弁を蒸して、薄く板状にかためてあります。熱湯をくぐらせるとき少し酢を落とすのがコツです。そうすると色もよくなり、歯切れもしゃきしゃきとよみがえると教えてくれたのは川柳仲間のその手紙からで、親切だなあ、友の顔をつい浮かべてしまうのです。
 菊は中国から朝鮮を経て伝来され、芳しい香、気品のある花として愛されていますが、栽培する菊と違って野生の野菊もすてがたい風情があるものです。野菊といえば映画化された「野菊の如き君なりき」の伊藤左千夫の小説『野菊の花』は忘れられません。二つ年上の従姉との哀れにも悲しい恋の物語――。うぶな二人が田園風景にうっすらと映るほどの描写で、抒情的な潤いをただよわす作品です。

 秋刀魚

 桂枝太郎は落語家、新作ものを手がけました。十八番は「磯のあわび」、地方巡演中をとらえ川柳大会にはしばしば出席、全国の川柳界に広く顔を売っていました。川柳も作りますが、二十六字詩(情歌、街歌ともいう)が得意でした。「機関誌『やよい』を発行するから印刷してくれないか」と突然訪ねてきました。朝一番の新宿発で来たのですが、用件がすむと「寄席の夜の部の受け持ちがあるから」といってすぐさま帰りました。
 大阪に川柳大会があり、私は選者に招かれて出かけました。ブラリと道頓堀を歩いていましたら、角座に枝太郎出演を知って、木戸口に来意を告げると休憩時間に私を楽屋まで呼んでくれ、そこでひいきの者に配るあの名入れの手拭をいただきました。
 枝太郎は江戸っ子で、薬科大学出身のインテリア噺家。永年刑務所、更生施設慰問に力を尽くされ、松本や有明には顔馴染みだったと聞きます。
 林家正楽紙切り、いまの正楽でなくその先代ですが、飯田出身。私は紙切り術に関心がありまして、文通をかわすようになりました。たまたま上京、上野へ回ったら、鈴本で出演中を知り、面会を頼みますと快く会ってくれました。いつも笑顔をたやさない人でした。
 正楽は、はじめ落語家で、のちに紙切りの余技を生かして紙切り芸能に変わり活躍しました。「さんま火事」は正楽新作ものです。意地の悪い家主をこらしめようと店子連中が知恵をしぼります。サンマを焼く煙を「火事だ」と大騒ぎして驚かすところがあります。
 このサンマ、秋刀魚と書きます。細長く光る刀身に似る秋のさかなといった意味になるのでしょうか。はだ寒い風が吹く頃、サンマを焼く煙が人恋しさを覚えさせるものです。
 寒いところから暖かい南の国へ渡るツバメ、コマドリに連れ立ってカツオもトビウオもお別れです。そして入れ替わって、北の方からサンマがぞくぞく日本近海にやって来ます。すんなりとして、キラキラ銀鱗をひらめかすサンマが食卓を賑わせてくれますと、佐藤春夫の「秋刀魚の歌」の絶唱をフト口ずさみたくなります。
  あはれ
  秋かぜよ
  情あらば伝へてよ
  ――男ありて
  今日の夕餉【ゆうげ】に ひとり
  さんまを食【くら】いて
  思ひにふける と。

読書シーズン

 江戸時代に出版された十返舎一九の書いた『膝栗毛』という本は、弥次郎兵衛、喜多八の二人が、行くさきざきで繰りひろげる滑稽道中記。東海道中だけですませる予定でしたが、あまりの評判で、金毘羅参詣、宮島参詣、木曽街道、善光寺道中、上州草津温泉道中、中山道中というように、弥次・喜多コンビを次から次へと書きました。享和二年から文政五年まで、およそ二十年間にわたるベストセラー、ロングセラーでした。
 さて『続膝栗毛八編上』に松本のことを「繁昌の所にして、町並よく商家数多く軒をならべて、往来殊に賑はひたり」と書いています。
  いく千代をふりよく見ゆる枝町もしげる常磐の松本の駅
 時代はくだって明治三十一年、山内実太郎の『松本繁昌記』という本が出ましたが、「松本の人情」の項に「信濃は山や河が多く、いくつもの小天地にわかれて交通が不便だから、兎角胆っ玉が小さい。長野の人は通りいっぺんで軽薄だ。松本の人はシャラ狡【こす】いと言われる。また器用だともいう。この器用がシャラ狡いに見られるらしい」と書いてあります。
 大正元年に松本高女の先生をしていた津島壱岐が『松本大観』を出しました。その「松本の地理」の中に松本の人口は三万七六二二人、「営業税二十五円以上納むる人員一覧」も出ていますが、法人の名が二十社、個人の名が三百二十一人です。主な生産品は、足袋一六七万足、価格二十五万円。織物三百余反、七千円。醤油三千三百余石、八万円とあります。
 郷土研究で知られた胡桃沢勘内は、大正四年に平瀬泣崖のペンネームで、『松本と安曇』を出しています。その中の「ボッカの話」のなかに、「昔から大町街道の貨物運搬を主業とした人夫の名称で、稼ぎ時は馬の通わなくなる冬季である」と書いています。ボッカといえば、今は山に荷をあげる人たちを指しているようですが、自動車もなく、道路事情も悪い時代の生活が目に浮かんできます。
 こうした本は読みたいけれど、なかなか実物を手に入れることが出来ずに残念がっていたが、ようやく見つけて読むときの感激は、またひとしおのものがあります。
 時あたかも十月二十七日から読書週間。秋の深まりをおぼえます。

お医者さま

 明治四十年に松本町から松本市になりましたが、これを機会に松本医師会は東筑摩郡医師会から独立しました。その初代会長は新家【にいのめ】実次郎といって大柳町(日銀の東向かい)の先生でした。背筋をピンと張って愛用の杖をついて往診する先生を町でよく見かけました。
 この先生は「転ばぬ先の杖」のことわざどおり、老人に「面倒がらずに杖をつかいなさい」と、よくさとしていたそうです。杖になりそうな手ごろな木を選び、これに干支とか詩を彫って、欲しいものにはわけてやりました。先生の丹精こめた杖を手にするものは、愛用を惜しみませんでした。
    はやり医●
  さる所に名医あり。生薬師ともてはやして、駕篭に乗って飛びあるく。夜は五度六度ずつ迎ひが来てつれて行く。朝も七ツ時分から起きねば調合の間があはず、此やふにいそがしいてはつゞかぬ。どうぞはやりやむ工夫もがなと、色々あんじて不景気に見せんと、先ず駕篭をやめて、かちであるく。それでもはやる。これではいかぬと供をへらして、一僕つれてあるく。それでもはやる。後には供をもやめて、身の廻り見ぐるしく見せて、只ひとりあるく。それでもはやる。どうしてもこうしてもはやる故、イヤハヤこれではならぬととうとう駈落。   (聞上手二篇・安永二年)
 ところで「甲斐の徳本」と呼ばれた医者がいました。変わり者で、諸国を遍歴して、一服十六文のキャッチフレーズで、患者を喜ばせてくれました。
 江戸にいたとき、将軍家が病んで、お抱えのいく人かの医師が手を尽くしたけれど、はかばかしくない。徳本を召して治療に当たらせたら、日ならずしてなおりました。例により十六文しかどうしてもとりません。
 将軍家では困って「何によらず願いたいことがあったら申せ」といいました。徳本は「私の友達に家のないのを悲しんでいるものがいます。家を下さるなら、友だちにあげて下さい」とたのみ、甲斐国に自分の金もそえてその友達を呼んで住まわせました。徳本はまた一服十六文の旅をつづけるのでした。
 晩年は信濃で暮らし、塩尻市あたりでも逸話を残しているようです。寛永七年没、岡谷市長地に墓があります。
  徳のある本道は苗字が知れず   (柳多留 二五)

いが栗

 えぞ豆本、九州豆本、青森豆本とかいろいろの豆本があります。版画、エッチング、孔版、拓摺りなど、あらゆる巧緻を極めた印刷技術が、瀟洒な製本に仕立てられ、愛書家にとって珍重すべき限定本。にわかに入手出来ない状況であるだけに、貴重な、そしてまことに小さなアイドルにも似たコレクションというところでしょうか。
 棟方志功年賀状、木下夕爾俳句集、正岡容寄席むかしばなし、蔵書票あれこれ。てのひらにちょこなんとのせて娯しむそんな本。これらを集めた豆本蒐蔵館を公開している人がいます。
 武井武雄豆本のうち第七冊は『本朝昔噺』。かっぱ摺りで、紙を型ぬいた数度刷りの気のきいた本ですが、そのなかの「さるかにかっせん」を見ると、臼、蜂、蟹、猿といっしょに栗がへの字に口をむすび、あのイガ栗頭そのままにきかん坊風に描かれています。
 イガ栗頭とは、髪を短く刈った頭ですが、落語の「いが栗」は、辻堂の縁に痩せ衰えた恐ろしい顔をした坊主がその頭の持ち主、旅人が道をたずねてもロクに口を開かず、やっと老母と若い娘の家に宿を頼んだが、この娘が奇病のわずらい。実はかの坊主の悪霊がたたっていたのをうまい気転で追い払い、それが縁で娘と祝言します。いざ新枕となると、ガタガタ邪魔が入る。実はネズミのいたずら。そのとたんにネズミの穴につめてあった栗のイガが落ちます。旅人は「アッ、まだイガ栗が祟っている」と苦笑い。
 小さいころ、遠足にはわらじをはいてゆくのがきまりで、歩くのに足も軽くスタスタと運びよかったものです。落ちているイガ栗を見つけると、わらじで踏みつけるのがよいといって、そのようにするとポッカリかわいい栗が出てきます。
 黒煙を吐きながら通る汽車が珍しい時分でしたから、その鉄道の枕木用材として栗の木が使われるのだと覚えていました。水湿に堪えるだけの堅さがあるからでしょう。
 一時は食生活に離せない役割を持っていて、子供のおやつ代わりに使われました。余った栗は米と同じ値段で取引されました。「栗一升、米一升」はそれを意味するわけで、のち鉄道枕木として採用伐されるようになって価格が高騰、ために「栗一升、米三升」に上昇したといわれています。
 ゆでた栗の皮を母はしきりに小刀でむきながら「昔あったとさ」と面白い話を聞かせてくれました。一つむけるとてのひらに載せてくれたっけ。