お医者さま

 明治四十年に松本町から松本市になりましたが、これを機会に松本医師会は東筑摩郡医師会から独立しました。その初代会長は新家【にいのめ】実次郎といって大柳町(日銀の東向かい)の先生でした。背筋をピンと張って愛用の杖をついて往診する先生を町でよく見かけました。
 この先生は「転ばぬ先の杖」のことわざどおり、老人に「面倒がらずに杖をつかいなさい」と、よくさとしていたそうです。杖になりそうな手ごろな木を選び、これに干支とか詩を彫って、欲しいものにはわけてやりました。先生の丹精こめた杖を手にするものは、愛用を惜しみませんでした。
    はやり医●
  さる所に名医あり。生薬師ともてはやして、駕篭に乗って飛びあるく。夜は五度六度ずつ迎ひが来てつれて行く。朝も七ツ時分から起きねば調合の間があはず、此やふにいそがしいてはつゞかぬ。どうぞはやりやむ工夫もがなと、色々あんじて不景気に見せんと、先ず駕篭をやめて、かちであるく。それでもはやる。これではいかぬと供をへらして、一僕つれてあるく。それでもはやる。後には供をもやめて、身の廻り見ぐるしく見せて、只ひとりあるく。それでもはやる。どうしてもこうしてもはやる故、イヤハヤこれではならぬととうとう駈落。   (聞上手二篇・安永二年)
 ところで「甲斐の徳本」と呼ばれた医者がいました。変わり者で、諸国を遍歴して、一服十六文のキャッチフレーズで、患者を喜ばせてくれました。
 江戸にいたとき、将軍家が病んで、お抱えのいく人かの医師が手を尽くしたけれど、はかばかしくない。徳本を召して治療に当たらせたら、日ならずしてなおりました。例により十六文しかどうしてもとりません。
 将軍家では困って「何によらず願いたいことがあったら申せ」といいました。徳本は「私の友達に家のないのを悲しんでいるものがいます。家を下さるなら、友だちにあげて下さい」とたのみ、甲斐国に自分の金もそえてその友達を呼んで住まわせました。徳本はまた一服十六文の旅をつづけるのでした。
 晩年は信濃で暮らし、塩尻市あたりでも逸話を残しているようです。寛永七年没、岡谷市長地に墓があります。
  徳のある本道は苗字が知れず   (柳多留 二五)