雪女

 昼間は何ともなかったのに、とっぷり暮れかかる頃、いつとなくちらちらと雪が舞いかかり、あたり一面がうっすら白さで広がってゆく景色に、ふと見とれることがあります。
 子供たちが思わぬ雪にはしゃぎまわっていると、母に「早くお家へお入り。いつまでもそうしていると雪女がやって来ますよ」と言われ、すごすご戻ってゆきます。雪女と聞くと何かしらこわいような物の怪【け】をかんじました。
 雪がしんしんと降る中をだれか一人、足音をしのばせるように歩いて来るけはいに気がつき「あれが雪女の歩く音だよ」そういわれると、一層こわい気がします。
 雪女は雪の精でしょうか。どうということなく立つと一本足、ところによると雪入道と名付け、妖怪めいた姿を思わせます。雪でおおわれた樹木のかたちが、すうっと立っているのがそう見えるからです。
 雪国では押しかかるほどの大自然に対して畏怖心があるのか、ふっと思いなしか物のこわさを心に描き、それが幻覚に支えられて、雪女のイメージになるのではないでしょうか。
 小泉八雲の書いた『雪女』は『耳なし芳一』と共に怪談に仕立てられています。『雪女』は、せっかくいっしょになったのに人間世界になじむことができず、男との間に産まれた子供まである幸せをふり捨て、その正体を知られたばっかりに、また雪のなかに去ってゆく哀しい物語です。
 伝説のなかには、子供を連れた雪女が道で行きづれとなった人に、「子供を抱いてくれ」とか「背負ってくれ」とか頼むところが出てきます。
 うっかりその子供を抱いたり、背負ったりすると、不思議にだんだんと子供は重くなってきます。変だなと気になりながら歩いていく。いつかその子供の重みのため雪の中に埋もれてしまう。実は子供は雪だったというわけで、こうした伝説が雪国には多いようです。
  雪女●
  「こん夜はやまぬやまぬ。近来の大雪じゃ。今来る道で、雪女を見た」「ほんにか。それはさぞこわかつたらう」「何さ、少しもこわくなし。ハテ見へる所は黒目ばかりだ」   (富来話有智・安永三年)
 黒目だけしか見えないのでは、あまりこわくないのだろうと思います。
  黒塚のまことこもれり雪女   其角

焼き芋

 近所に青果屋さんがあって、出回る頃になると忘れずにサツマ芋を一俵届けてくれました。どこの家庭でもそうですが、ご多分にもれず私の母も大好物でした。すぐに蒸して今年の出来はどうかな、とみんなで賞味しました。
 「氷」と藍地に白抜きの幟【のぼり】を夏空にはためかせていたお店が、晩秋になるとあんどんを店先に据えて焼き芋屋に早変わりします。いよいよ寒い季節に入る前ぶれです。
 サツマ芋は中南米が原産で、イスパニヤに入ってヨーロッパに広がり、慶長十三年中国大陸から琉球に、そして薩摩におよびます。享保年中、青木昆陽が江戸へ広め、各地に栽植を奨励して盛んになりました。「唐芋」「琉球芋」「薩摩芋」などの和名はそのまま伝来の道筋をあらわしているわけです。
 青木昆陽は江戸新橋の魚問屋を営んでいましたが、学究肌で商売を嫌い、のち儒者になりました。どうして学者になりましたかと尋ねますと「商売しておれば儲かるのはいいが、相撲取りにまわしの寄付を強いられたり、また役者に幕を贈ったり、なにやかやわずらわしいことが多くて困りました。いまこうしてわび住まいですが、けっこう気楽で居心地がよいです」と答えました。サツマ芋を普及した功によって甘藷先生と呼ばれたのは有名です。
 焼き芋の始まりは、寛政五年、江戸本郷四丁目にほうろく焼きができたときで蒸し焼きでした。看板に「八里半」と書いたあんどんを出しました。栗(九里)にも近いうまい味だーというシャレなのです。またアイデアマンはいたとみえて、小石川白山に「十三里半」と書いたあんどんを出しアッといわせました。それは栗(九里)より(四里)うまいというユーモアです。
 「いと高らかに鳴らしけり」のあのガスは、もともと含水炭素の発酵で、蛋白質の腐敗と違いそんなに臭くないし、健康のしるしであるーと生理学的理論を聞きますが、ご家庭の被害は軽微でしょうか。
 屋台に備えつけた釜に小石を敷いてまるのままの石焼き芋が、売り声も高く庶民の暮らしのなかにノスタルジアを流しながら、きょうも通ります。
  焼き芋へ女ばかりの座りぐせ   八千丸

落ち葉

 「いま松本駅に着いたばかりだが、君と逢って話したいことがある」―そういう電話がY君からありました。何だろうか、たしか岐阜県にいるはずだが、その後の動静を聞こうということもあって、早速出かけました。
 道々歩きながら話すところによると、せっかく接骨医を開業したのに思わしくなく、とうてい見込みは立たないから郷里の新潟県に帰って出直しだ――というのです。
 知らず知らず深志公園の池のほとりに来ていました。さびしそうにベンチに座り、うつろに鯉の泳ぐさまを見ています。「まだまだ私たちは齢が若いんだ。これからさ」と私は激励しました。
 松本中学のとき転校して来たY君は、すでに家庭的事情にさいなまれ、親戚の家から通学していました。卒業すれば自立しなくてはならないと決意、柔道に専念しこれを生かす職業を選ぼうと考えたのでした。
 彼を慰め、励ましながら深志公園を去るとき、しきりに落ち葉が私たちの肩のうえに舞ってきます。淡く秋の陽がふりそそぎ、彼の捲土重来をかばうようにも思われたのです。「さようなら、お元気でね」―そういって駅頭で別れたあの日は、昭和の初めでした。
  漂々と風に吹かれて野をぞゆく地に擦りてとぶ落葉も踏みて   郁太郎
 それから私たちのうえに幾星霜が流れてゆきます。戦争が始まり、終戦一カ月前、強制疎開に遭った私たち家族は郊外に移り住んでいました。中学同級だったA君から「秋の果物をわけてくれる知人がいるから来たまえ」という知らせがありました。「嬉しいな、有難いな」と思い、自転車で入山辺小学校のAくんを訪ねました。教え子たちの家々に案内してくれ、大変お世話をして下さったのです。 野山の紅葉がとても美しく、そしてあたりにはまた落ち葉が降りかかってもいました。寒々とした晩秋の風景のなかに友情のいつくしみを感じないわけにはいられませんでした。
  落葉はげし戦を千代に記憶とす   静生
 そして十年がたちました。突然、Y君が私の家に見えたのです。とても明るく、あれから別れて以来三十年ぶりではありませんか。奥さんは歯科医、自分は接骨医、息子さんは医大生、そんな話がポンポンと出てくるのです。このとき私たちは深い秋に包まれ、庭明かりにひらめく落ち葉が「久し振りね、よかったね」といわんばかりでした。

義民を偲ぶ

 松本城の一番上の屋根に街灯くらいの電灯が立てられたことが、むかしありました。毎晩点灯するわけでなく、何かの慶事があるときに限って灯りがつきました。遠くから眺めると城の頭にローソクを立てたような情景で、たしかにあたりを明るくしました。まだ、天守閣広場を自由に通ることのできる頃でしたから、物珍しそうに見上げたものです。
 古風な松本城の屋根に、近代的な文明の利器とのアンバランスが気にかかると見えて、そう長くはつづかず、とうとう撤去されてしまいました。
 明治時代の写真のお城は、ちょっと首を傾けています。あれは中萱(現在三郷村)の多田加助が処刑されるとき「年貢は二斗五升びきだ」と絶叫し、はたと睨んだのでぐらついたのだ、と聞きました。
   刑場ゆ義民中萱嘉助の眼怨みに燃えて睨みしか天守閣   絃月
 今から三百年ほど前の貞享三年に百姓一揆があり、その主導者だった加助らの訴願がいったん請け入れられたのに、急変して約束は破棄され翌日逮捕、十一月二十二日極刑に処せられました。
 刑場は勢高と出川で、勢高は亡念沢と呼び、夜な夜な義民の怨念の怪しい光茫が見えるといわれました。その場所は城山の西斜面ですが、のちもっと東の地籍から古い人骨の埋葬されていたことが判明しました。
 出川刑場に曳かれてゆく囚人が、田川に架かる橋を渡るとき、思わずぐったり首を垂れる実感から、この橋を「がっくり橋」と名付けました。痛恨極まりない思いがひしひしと迫ってまいります。
 鳥羽とほるの『がっくり橋』によれば、たび重なる出水や流路の変遷で、田川は今より東の方を流れていて、橋を見て行き過ぎるのではなく、その橋を渡ってから目のあたり刑場が見えて来て、田川の左岸を曳かれてゆくことになるから、「がっくり橋」の名は悲しく傷ましかったと書いています。
 囚衣をまとい逢髪乱るるまま荒【すさ】ぶ風にまかせ、蕭条たる堤の上のおのが身の果てを思いやるとき、いかばかり今世との別れを惜しんだことでありましょうか。
  罪人ら曳かれきたりて歎きしかがったら橋にて刑場は見ゆ   近利
 のち、この義民たちはねんごろに供養され、中萱の加助神社、そして城山の南の義民塚にまつられ、長くその名を伝えております。

郷土玩具

 小林朝治は須坂町(現須坂市)で眼科医院を開きながら、かたわら版画家として全国に知られていました。私は月刊雑誌『川柳しなの』を創刊して間もなく、郷土玩具を模した版画で表紙を飾らせていただき、好評を得たものです。
 まず昭和十二年八月号が「七夕雛」。板雛は顔だけ描かれ、胴と腕木に晴着をまとわせるのですが、この版画は紙雛で、顔は押し絵を使い、衣装は紙で作ってある牽牛織女の一対でした。
 そして昭和十三年一月号から六月号までは「張子の虎」、眉に鳥の羽根を用いたのが特色で、首を振ります。
 七月号から十二月号までは「七夕奴提灯」。いまはあまり見かけませんが、昭和十七、八年頃までは売っていました。七夕様のお祭りにこれを軒下に吊るし、ロウソクを立てて灯を入れると、ほのかに初夏の情緒をゆらめかしました。風が吹くと、奴の肩の部分と足の部分がさし込みでペラペラゆれます。
 昭和十四年一月号から六月号までは「押し絵雛」。内裏様や天神、武者人形など、材料は布を使い胴中に竹串を貼り込んで台座に立てます。代々その家に伝わって来て一年一回飾ることを誇りにしてまいりました。
 つづいて七月号から十二月号までは「古型牛伏寺厄除牛」。松本市内田の牛伏寺ゆかりの郷土玩具。昔、大蔵経を背にした牛がここで倒れために一宇を建てたという伝説があります。
 そのあとも連載を予定していましたが、その年の八月五日、芸術上の悩みで自ら生命を断ってしまいました。惜しい人でした。
 松本郷土玩具は、このほかに復元現存するものでは「松本姉様」「松本手まり」があります。武井武雄著『日本郷土玩具』では「松本姉様の作風は、荘重優雅でしかも艶麗、封建的な気分がよくにじみ出ていて、姉様中屈指のものである」と高く評価しています。
 「松本手まり」はシンの中に山マユや鈴を入れてあり、白糸でそのまわりをくるくる巻いて、表面は色糸でいろいろな模様が浮き出させてあります。
 竹を切って赤髪を張り、ちょっと金紙を配した「初音」は大晦日の夜に売り歩く愛すべき小品。「松本達磨」は目無し、胸間に大当【おおあたり】が特徴で願いごとが叶うと目を入れてやります。
 廃絶になりましたが、「浅間土玩」はいかがでしょうか。素焼の亀と土瓶とカマドを買ってもらい、湯の中で楽しんだことを思い出す人も多いことでしょう。

えびす講

 七福神のなかの恵比寿さまは、鯛を小脇に抱え、釣竿を持っています。いつの頃からか、これを信仰する商家が商売繁昌の神さまとしてお祭りし、十一月二十日えびす講が行われるようになりました。
 松本では本町一丁目が所有する深志神社境内のえびす殿の例祭日で、十九日には徹夜して翌朝まで、当番に当たった家の者が出掛け、景品付きのおみくじを売ることにしたものであります。
 この十九日、商家では揃って戸を閉めて休み、番頭をはじめ店員たちは大いにくつろぎました。夜になると親類縁者が招かれ、飲めや唄えの饗応があり、日頃の労苦をいやしたものです。
  えびす講旦那のこわくない日なり   (天四満二)
 これは江戸時代の句ですが、田舎でも同じだったのでしょう。そこには主従につながる信頼感がうかがわれます。
 えびす講は、収穫後の農村を対象に商店が売り出しをします。農家では、稼ぎに旅立ちしたえびす様が帰って来る日として、赤飯やぼたもちなどを供えてお祝いする習俗がありました。
 毎年この日になるとえびす講が全市一斉に賑々しく繰りひろげられます。大型店、小型店が打ち揃って、あの手この手の商戦は大いに見ものです。
 お菓子屋さんはこれまたみんなに遅れまいと、金つば売り出しを宣伝します。商売と金との縁起に、気のきいた創意が光っています。
 金つばはもと銀つばといいました。徳川五代綱吉将軍のころ、京名物の焼餅の名で売り出されてました。米の粉の皮で赤小豆の餡【あん】を包んで焼き、花模様をあしらい、色づけにした焼餅でしたた。
   釣●
  「船頭や、けふはなぜこのやうに食わぬ」「されば、合点が行きやせぬ。ヲゝそれそれ、けふは竜宮の夷講、魚ども残らず呼ばれて参りました。悪い日にお伴申し、気の毒」といふうちに、何かかかつたと釣上げ見れば、大金魚。「ヤレめでたい」と、これをしほに宿へ帰り、岡持の蓋を明くれば、潮際河豚、のびをしながら「アゝ大きに酔つた」   (一のもり・安永四年)

案山子

 街なかに住んでいたから、遠足などで郊外に出るのがどれほど楽しかったことか、少年の頃を思い出します。肥料になるレンゲ草の咲き揃った田圃に寝転がったり、ニョロニョロしたオタマジャクシを捕ったり、人さし指でぐるぐる円をかきながらトンボをつかんだりして遊びます。
 秋といえばイナゴ捕りに母親と元気よく出かけました。袋のなかに入れてウヨウヨと動き廻るのがなんとなく無気味にも感じます。
 ある日、案山子【かかし】くらべがあると聞いて、友だちと町はずれまで見に行きました。目鼻を墨で塗りたくったおっかない顔が、ヨレヨレの着物で手は左右に広げているのがほとんどでした。なかには鬼がグッと睨んで一喝しているも見ます。
 案山子の語源は「嗅がせ」です。いやな臭いを嗅がせることで、獣類の毛や肉を焼き、稲を食い荒らす害敵を防ぐためだといわれます。
  山田の中の一本足のかかし
   天気のよいのにみのかさつけて
  朝からばんまでただ立ちどおし
   歩けないのか山田のかかし
 それに弓矢をつがえ威張っているけれど、山ではカラスがカアカアと笑い、耳がないのかね、とひやかされます。田畑を荒らすということで、猿や鹿やカラスや雀が対象になったのですが、同じけものたちの毛や肉を焼いて、かえって親近感をおぼえ、すり寄って来ることもあるのではないでしょうか。
 石油をボロ布や紙をしみこませたり、ヨモギに火をつけて畔に立てたりしていやがらせをしたのですが、考えようによれば警戒の方がさきに立ったということになりそうです。
 おっかない案山子がそこに立っている、さぞ恐ろしいだろうと思っても、雀の方はなんとも無感覚で、のんびりと頭にのせた笠のうえにとまっている微笑ましい風景も見られます。
 目を刺激する吹き流しが風にゆらいで効果をあげ、鳴子や風車やプロペラの動く音響でパッと飛び立つカラスや雀はきっと驚いているに違いありません。
 十日夜【とうかんや】は旧暦十月十日、いまはひと月遅れです。田畑を見守ってくれた田の神様が山へ帰って、ゆっくり山の神様になるといわれます。田を守ってくれた案山子を庭に祀り、新米で搗【つ】いたお餅を供えたりして感謝する風習が地方によってはあると聞きます。農家でみのりの秋に包まれて、鳥追いにつくしてくれた案山子の苦労をにこやかに振り返っているのです。