義民を偲ぶ

 松本城の一番上の屋根に街灯くらいの電灯が立てられたことが、むかしありました。毎晩点灯するわけでなく、何かの慶事があるときに限って灯りがつきました。遠くから眺めると城の頭にローソクを立てたような情景で、たしかにあたりを明るくしました。まだ、天守閣広場を自由に通ることのできる頃でしたから、物珍しそうに見上げたものです。
 古風な松本城の屋根に、近代的な文明の利器とのアンバランスが気にかかると見えて、そう長くはつづかず、とうとう撤去されてしまいました。
 明治時代の写真のお城は、ちょっと首を傾けています。あれは中萱(現在三郷村)の多田加助が処刑されるとき「年貢は二斗五升びきだ」と絶叫し、はたと睨んだのでぐらついたのだ、と聞きました。
   刑場ゆ義民中萱嘉助の眼怨みに燃えて睨みしか天守閣   絃月
 今から三百年ほど前の貞享三年に百姓一揆があり、その主導者だった加助らの訴願がいったん請け入れられたのに、急変して約束は破棄され翌日逮捕、十一月二十二日極刑に処せられました。
 刑場は勢高と出川で、勢高は亡念沢と呼び、夜な夜な義民の怨念の怪しい光茫が見えるといわれました。その場所は城山の西斜面ですが、のちもっと東の地籍から古い人骨の埋葬されていたことが判明しました。
 出川刑場に曳かれてゆく囚人が、田川に架かる橋を渡るとき、思わずぐったり首を垂れる実感から、この橋を「がっくり橋」と名付けました。痛恨極まりない思いがひしひしと迫ってまいります。
 鳥羽とほるの『がっくり橋』によれば、たび重なる出水や流路の変遷で、田川は今より東の方を流れていて、橋を見て行き過ぎるのではなく、その橋を渡ってから目のあたり刑場が見えて来て、田川の左岸を曳かれてゆくことになるから、「がっくり橋」の名は悲しく傷ましかったと書いています。
 囚衣をまとい逢髪乱るるまま荒【すさ】ぶ風にまかせ、蕭条たる堤の上のおのが身の果てを思いやるとき、いかばかり今世との別れを惜しんだことでありましょうか。
  罪人ら曳かれきたりて歎きしかがったら橋にて刑場は見ゆ   近利
 のち、この義民たちはねんごろに供養され、中萱の加助神社、そして城山の南の義民塚にまつられ、長くその名を伝えております。