小林清親

 父があつめた、はりませの二枚折り屏風には、巌谷一六の書や諸家の絵にまじって、小林清親の風刺画が異彩を放っています。兜、陣羽織に身を固め、大槍を持った加藤清正が、張子の虎を見てびっくり仰天の図で、私は小さいときからこの画に馴染んできました。
 清親は晩年、地方を揮毫【きごう】遍歴したもので、大正三年、松本に逗留し、たまたま父はこれを手に入れたものと思われます。
 平瀬泣崖(故胡桃沢勘内、四沢、麦雨の号あり。歌人民俗学者)の「松本に居た清親」によれば、六九町の米由【こめよし】百瀬市作の持ち家に清親は滞在していました。どんな事情で松本に来たかといいますと、こんな逸話が残っているのです。
 松本の折井という人が東京へ出て、ある女の人と親しくなって結婚、松本へ連れて来ます。六九町表通りで自転車のニッケル鍍金【メッキ】業を開業、その家主は米由でした。事業は順調で生活の見込みも立つようになり、折井の実家はその嫁を受け入れたのですが、妻の実家へは疎遠勝ちで、この承認を得るには理解のある妻の伯父に頼むに限ると考えました。その伯父が清親であります。
 伯父に宛てて妻女から手紙を出し、「信州へ遊びに来て下さい」と言ってやりました。清親は右足のリューマチの持病がありすぐには来ないと思っていたのに、「諏訪まで揮毫に行く用があるから、そのとき寄る」と手紙がまいりました。
 家主の米由に話すと、いま住んでいる裏手の女鳥羽川畔、小さな門構えの二階建ての一軒家があいていたので、そこに案内しようと準備が出来ました。そして清親は悠々揮毫滞在となったわけですが、書画骨董に詳しく、また趣味仲間で同業の米由を通じて、私の父もすすんで清親の絵を所望しただろうと推察するのです。
 清親は幕末動乱の中にもまれ、鳥羽伏見の戦にも参加しましたが、初心の画家志望を捨てきれず、洋画を学び、また日本画にも精通しました。そして洋風をとり入れた新しい筆致による東京風景の版画を作り評判になりました。
 私の家に版画「九段坂夜雨」があります。傘をさしかけた人たちが提灯で照らしながら歩いています。雨の夜空の重さがのしかかり、坂を上り下りする人の点描が見事です。灯と影の交錯が調和され、明治の浮世絵風の味となり、巧みな雰囲気を漂わせています。