そろばん

 散歩はユックリ、ユックリよりも、少し足早の方がよいと聞いて、松本城の北濠を通り、松本神社をお詣りしてから、境内の「堀内桂次郎先生碑」にふと目をとめました。松本市柳町生まれ、郁文学会をつくり私学振興に尽くした人で、薫陶を受けた教え子たちが昭和三十六年建立と刻まれています。
 それから足をのばして旧開智学校の裏にある小公園にたたずみましたら、「中島先生頌徳之碑」があるではありませんか。これは明治四十一年に建てられ、はじめは松本城広場の片隅にあったものなのです。
 中島這棄【これすて】は、松本市北堂町生まれ、祖父の代から松本藩の算術師範役を勤めたこともあって、藩の勘定役所に出仕し、壮年から子弟を教えました。三十八歳の時、失明したのですが、記憶力よく、算盤【そろばん】の珠のはじく音を聞きとめて、誤算あればそれをたしなめたほどでした。
 中風の祖母を背負っていたわり、また父の中風症を手厚く看護しておりましたので、人びとはその孝養をほめそやしました。天寿を全うし、八十六歳でこの世を去っています。
 野田文蔵も和算家、その伝記ははっきりしていません。享保の頃、数学に精通して有名でした。これがときの将軍徳川吉宗の耳に入り、町奉行大岡越前守は文蔵を召し「銀百目を二つに割ったらいくらになるか」とたずねました。文蔵はしばらく考えている様子でしたが、「算盤をお貸し願います」と言って越前守の目の前で珠を動かし「二一天作の五」と唱え、「五十匁になります」と答えたのです。越前守は大いに感服し「三つ子も知ることをすぐに答えずに実に丁寧だ。立派な数学者だ」と満悦でした。文蔵の答えが慎重であることもさりながら、越前守の話の進め方も要領を得たものだと大方の評判だったそうです。
 私の机辺に五つ珠の算盤が置いてあります。計算するのに「ちょっと拝借」といって、この算盤をいざはじこうとするとき、かならずといってよいほど「なんとまあ、これは古物ですね」と、ほめているのか、けなしているのか、それはわかりませんが、おっしゃる通り古色蒼然たる代物。
 父の代から受け継がれたもので、愛用というより、そっと大事がっているという方がほんとうかも知れません。加減乗除のくり返しのように世の中は移り変わりましたが、お前は頑張り屋だとそっと撫ぜてやりたくもなります。
  二と二では四だが世間はそうでない   飴ン坊