看板

 馬肉屋なら馬を看板にしてもよさそうなものですが、馬だけでなく、馬と牛と喧嘩して馬が勝ったところを描いたものがあったそうです。松本ではどんなでしょうか。
 もともと獣肉を売る店は、江戸時代の天保以降ようやく盛んになったのですが、猪の肉は山鯨といっていました。山にいる動物で鯨の肉のようだ――そんな意味なのです。看板に紅色の牡丹の花の絵のものもありました。猪と獅子の読みが通じるところから「獅子(猪)に牡丹」にナゾめいたことになります。
 シャレといえば、見せ物小屋で大イタチとあるから、これは珍しい動物だと入場して見たら、板にタップリ赤い絵具を塗って、それで板血をきかせたものだったので、ガッカリするやら、くやしいやら。
 街を歩いて目につくような看板をさがしているうち、杉の玉を揚げている酒屋がありました。小さな屋根の下に吊りさげられた酒林なのです。杉の葉の束ねたもので、昔から丸型と長く束ねた型の二種があったようであります。
 三輪明神が酒の神を祀るところから、明神の神木が杉なのでそんな縁で杉の葉を看板とするようになり、街道の茶店などでも「酒有り」の所に、この酒林を出したものと聞きます。
 革足袋の型に「股引」の二字をしるした看板が掲げられたのを見たおぼえがあります。これは足袋屋の看板で、股引は、足袋屋で必ず作ることにきまっていたのです。幕末に日本人最初の洋服屋が足袋屋にいた職人から生まれたというのも、股引を縫える技術があったからだといわれます。
 大正時代、足袋は冬に履く必需品で、その繕いに母親は夜なべして精を出したことが思い出されます。ボロ布をあててまた縫い直し、履けるだけ履く慣習がしみついていたのでした。
 小学校の頃、筆屋によく通いましたが、筆屋の看板はどれも軸の太いガッシリした絵を描くことできまっておりました。そして日本の絵看板資料の最も古いものが筆屋だったといわれます。