飛行機

 深志公園の上空を祝賀飛行機がとんで来ました。大正十四年五月十七日、普通選挙法が議会を通過したのでそのお祝いです。
 明治三十年に「平等会」とか「社会問題研究会」とかを母体とする普通選挙運動の先覚者、中村太八郎(現山形村)らの念願が幾多の曲折をへて、二十八年ぶりに目的を達したのでした。
 この祝賀飛行の搭乗者は、長谷川清登飛行士。笹部に飛行場があって、遊覧宣伝飛行や飛行学校で活躍し、また航空写真という新しい分野を開拓しました。
 松本に飛行機が初めて姿をあらわしたのは明治四十三年、五十連隊の練兵場(現美須々ヶ丘高校辺)。都筑某という人によって単葉機で地上を滑走しましたが、とうとう空には舞い上がりませんでした。
 私は子供ごころにも血わき肉おどらせたのは大正六年、やはり練兵場で米人アート・スミスのアクロバット飛行を見たときです。上空高く、低く、木の葉落とし、宙返り、きりもみ、などの妙技に大観衆はかたずをのんだり、歓声をあげたり大さわぎでした。
 それから二十年、亜欧連絡飛行にビックリしました。こんどは日本人、それも豊科町出身の飯沼正明操縦士です。
 英国皇帝戴冠式奉祝を兼ねて、純国産飛行機「神風」に乗り、昭和十二年四月六日出発、東京――ロンドン間(一万五三五七キロメートル)を九十四時間十七分五十六秒でとび、新記録を樹てました。
 飯沼は松本中学の昭和六年の卒業生。六月八日帰郷したとき、塚越賢爾機関士を伴って母校の歓迎会に臨み、夜は祝賀提灯行列がありました。感激に緊張した二人を私は大名町通りで見ました。
 のち昭和十六年、第二次大戦中、陸軍技師としてマレー半島プノンペン基地で散華しました。惜しみても余りある弱冠三十歳でした。
 あれから四十年たちます。このごろ茅野市外の車山高原で、ハンググライダーの選手権大会が行われました。ふんわりと三角翼の人間凧が飛ぶ妙技もさることながら、地上より舞い上がる鳥人たちの夢の醍醐味はどんなものでしょうか。
  平和願う目に飛行機は見送られ   弓人