一里塚

 穂苅三寿雄は『新宮本風物詩』のなかに、芝宮の松並木を書いています。松本市岡田の芝宮で、岡田神社の松並木をいうのです。松本にまだ汽車のなかった頃、兵隊にとられた若者たちが馬に乗り、親戚、知人や町の人びとにこの松並木まで見送られ、多くは高崎聯隊へ入隊したとあり、
  松の木の並みたる見れば家人の吾を見送ると立たりし如【もころ】
 万葉集にあるこの歌をあげて、生還も期しがたい防人の、やはり同じ故郷の親や妻子に別れゆく悲しみと変わりないことを伝えています。
 田舎道をテクテク歩いてゆくとき、めざすものは街道の松並木であり、杉並木であった昔のことが思い出されましょう。集散離別の宿命にあやつられたとしたらなおさらです。
 松本の江戸川柳集『田舎樽』に、
  松原を空へぬけたふなつて来た
という句があります。昼なお暗い松原にたえがたく、早く陽の目に当たりたいというのでしょう。
 こうした並木は街道をゆく旅人にやすらぎを与え、夏は日陰の下に休息することができ、冬は積雪を防いだことになります。
 昔は歩いてゆくほかはありません。歩かないでいいとすれば、道中駕籠に乗るか馬に乗るほかに、川越えには肩車か舟に乗ります。
 並木とは別に、一里塚という道のりをはかるけじめの塚がありました。江戸の日本橋を基点とする一里ずつの延長線を示す道標です。榎を植えた小高い塚が目じるしとなり、旅ゆく人の目測にもなりました。一里塚があることで、人夫や駄馬を雇った場合に里程を知ることによって、余計な賃金を払わないですむ利点もありました。
 松本市では、出川に一里塚があり、それは田川土手べりを北にゆく右あたりにあったといわれます。次の地点は萩町、これは元原との地境の道路をはさんだ東と西にあったということです。いまある一里塚としては、塩尻市平出あたりの小高いところにその面影を見ることができます。
 榎の実が熟することで旅人の渇を癒やしたともいわれ、榎のかわりに松も植え、一里松、一本松といいました。