野球

 松本中学五年生の夏(昭和二年)、長野県野球大会が上田で開かれました。中学最後の思い出にしようと、応援の呼びかけもあって、徒歩で岡田を経て、錦部を通り、保福寺峠を越えて、勇んで上田まで行きました。総勢二十人ぐらいだったでしょうか。
 上田市内の小学校で寝泊まりしました。第一回戦に敗れ、その夜の残念会では「来年に期そう」という熱涙あふれる激励の集いがあり、翌朝保福寺峠を越えて帰りました。さすがにみんながっかりしたと見え、たった三人きりでした。
 翌年、松本商業は見事に甲子園野球大会で全国制覇をとげ、天下にその名をとどろかせました。八月二十二日のことです。二十四日に栄えある選手たちが松本駅頭に帰ってきました。これを祝福する市民の群れで、駅の興奮はいやがうえにもたかまりました。
 歓迎のるつぼのなかで、佐藤茂美主将を先頭に百瀬和夫副将につづく選手たちの英姿は、ひときわ感激に満ち満ちていました。
 夜は深志公園で市役所主催の歓迎会が催されました。大正二年、野球部が初めてできたとき、ここで先輩たちが練習した思い出の地なのです。
 大正といえば松商の林好雄遊撃手、松中の熊谷中堅手の名は忘れられません。打球を捕えた一瞬、くるっとからだを回転し投球する林選手の機敏な早業は、見る目にもまことに爽やかでした。一方天守閣グランドで、月見櫓の屋根瓦にまで達する豪快な熊谷選手の長打は、多くの人々の喝采を博したものでした。ともに仲よく明大に進み、六大学野球で活躍しました。
 松商には土堤ファンがいます。グランドの土堤に練習を見にくるほど熱心なファンです。いざ試合となれば、タノマッセのゼスチャーの川越の隠居、原の床屋、山辺の峰村、飯田町通りの丸周のオッサン(愛嬢は昭和二十九年春の選抜大会で全国優勝の飯田長姫高校光沢毅投手令夫人)たちは、その代表的な人でした。
 松商に負けてばかりいた松中も、戦後二十二年の夏初めて全国大会にコマを進めましたが、一回戦で惜敗しました。
  甲子園男の涙美しい   美宏