雷嫌い

 近所に子供好きなおじさんがいました。うるさがりもせず、いたいけな私たちの相手になってくれました。ニコニコしながら昔話や土地の習慣などを話してくれ、決して物識り顔はしないで、親しげに子供の心をしかととらえました。そこの家の前を通るとき、中をのぞきこむようにして、「いるかな」とその姿をうかがうのが常でした。
 子供好きなのに、嫌いなものがありました。雷様です。仲よく話しているとき、ゴロゴロと雷様が鳴り出すと、いやに落ちつかずうろうろしはじめます。あんなにやさしかったおじさんの顔が、急にきつくなるのです。そして「今日はこれでおしまい」、そう言って奥の方へ隠れてしまいます。
 後で聞きますと、押入れにもぐりこみ、耳をふさいで雷様の止むまでじっとしているということです。そういうおじさんの様子を目に浮かべて不思議がりました。子供だってこわいに違いなく、父とか母に寄り添い身をかばうのですが、まさか押入れにまで入ろうとは思いませんでした。
   雷ぎらい●
  「そりやまた光つた、今度は大きく鳴るであらう」と亭主は戸棚へはいり、戸を引き立て息を殺して心の中で観音を念じてゐる。女房は思ひのほかなんとも思はず、四つばかりな子を抱いて居るうち鳴りもやみ雲も晴れれば「モウ出てもようござります」を戸をあければ亭主這ひ出て「さてさて大きに窮屈な目をした、高が知れた事だと思ひながら、どうもこはくてならぬ」と言ふを、小さい子が「コレ嚊さん、とつさんはの、雷さんにもアノ借りがあるの」
   (落噺六義・寛政九年)
 こばなしのおやじさんは借金取りが来ると、戸棚へ逃避行を試みる雲隠れ術があったものと見えます。
 フランスの作家ジェームス・ジョイスの雷嫌いは有名ですが、天下の横綱であった常陸山谷右衛門は雷鳴あれば土俵へ上らなかったそうです。
 『天地或問診』という本にはこう書いてあります。雷を恐れるのと恐れないとは、その人の剛胆のあるなしにかかわらない。これは天性の嫌いであって、雷を恐れないのをよしということにならない。「要は座を正し慎むべし」とあります。「地震・雷・火事・親父」のように、やはり用心に越したことはありません。