情歌

 深志神社境内にこんな歌碑があります。
  蟻も通さぬ人目の関を 夢は巧みに抜けて行く
 作者は北城庵香風、本名は丸山喜代太郎、慶応元年、松本市蟻ケ崎で生まれました。長く大名町にあった頃の松本警察署に勤めながら情歌をよくし、県内外に宗匠格として鳴らしました。
 情歌というのは都々逸の流れを汲む七七七五調。寄席や柳暗花明で唄われ、天保時代に都々逸坊扇歌がこれを流行させました。扇歌が情歌の始祖ともいわれております。
 石川淳の『諸国畸人伝』には、扇歌の人柄を伝える逸話が興趣豊かに書かれています。
 農閑期になると、松本平、とくに安曇平では情歌をはじめ冠句、物は附、一ト口附などの募集をして、選者による発表会が賑やかに開かれたものでした。南安曇郡豊科町で発行された「信濃不二」を主催する会田血涙は、この道のよき理解者でもありました。
 香風は詰襟の洋服、キリッとした背の高い人で、スタスタ無雑作に草履で歩いてゆく姿が私の記憶に残っています。
 妻に先立たれ、文彦、卯年彦、長枝の三人を抱え、苦難の道にあって歌境は冴え、人情風月を詠じました。卯年彦は病気の兄、いとけなき妹の面倒をみながら学業の成績が抜群だったのですが、十八歳で早世しました。孝子として『松本郷土訓話集』にあげられています。明治四十四年にその顕彰碑が木沢正鱗寺境内に建てられました。
  月にも花にも名残を捨てて 遠のよみぢへ文行脚
 こういう情歌を辞世として香風は、昭和十四年に世を去りました。文行脚とはまさしく言いえて、この人らしい生涯を偲ばせる作品です。
 香風が活躍した時代、松本には同好者の往来が繁く、東京の鶯亭金升南天居美禄、秋田居美豊などとの交流が盛んでした。
 また松本座で情歌大会を開いたときなど、情歌五千、雑俳二千に達する集吟があったほどです。
 隔日に一回五十銭会費で雅会を催し、会場は高砂町の松嘉、天神町の村瀬家などで、はなやかに佳吟を生んだのです。西長沢町の石天居美洞(飯島)南土井尻町の松月居美文(浅野)新橋の春江居美汀(青柳)新村の呑気庵見通(赤堀)と平林美筵、飯田町の石原美嵐、島内の洞口朧月、南新町の小山松南、大友梅松は健吟家でした。