槍ヶ岳

 松本市街地から北アルプスをながめると、その山々のたたずまいの威容さがよくわかります。小さく見えても槍ヶ岳の俊峰はやはり秀でています。
 この槍ヶ岳開祖の播隆上人の名が知られてきたのも、古きをたずねる風潮からでしょうか。
 今から二百年程前、播隆はいまの富山県上新川郡大山町に農家の次男として生まれました。出家して、念仏一念に徹して諸国を歩くことになります。
 飛騨の笠ヶ岳は昔からの登山の要として知られ、播隆も槍ヶ岳開山より前に笠ヶ岳登山路を整備しています。
 播隆が槍ヶ岳開山を決意し、松本市大村の玄向寺にやってきたのは四十四歳の夏のことでした。立禅和尚は快く迎えて、いろいろ便宜をはかってやりました。寺の近くにある女鳥羽の滝で水垢離(ごり)として槍ヶ岳開山を祈願したといわれています。南無阿弥陀仏の名号の碑には、播隆の名があります。
 立禅和尚の紹介で南安曇郡の旧小倉村に中田九左衛門を訪ね、別家の中田又重郎の案内で初の槍ヶ岳登山をこころみました。大滝山までは新道が開かれていましたが、その先は道はなく、播隆が参籠した坊主小屋は今でも槍沢に残っています。
 二年後の文政十一年、登頂に成功し、頂上に仏像を安置することができました。その後、いくたびか槍ヶ岳登山をくりかえしています。五十九歳のとき頂上ちかくに鉄ぐさりをかけ、登りやすくしました。
 このように播隆と縁故のある玄向寺は、見事な牡丹の花で知られています。いつもこの時季の盛りには、見物の人出で賑わいます。
 牡丹は花の王といわれ、富貴長寿のシンボルともいいます。
  道中に二十日も盛る牡丹なり   (柳多留 三六)
 牡丹は奥州津軽家の異称。家紋が杏葉牡丹でこの称があります。江戸から二十日もかかる地であること、牡丹の別名の二十日草を言いからめているのです。
 牡丹散ってうち重なりぬ二三片   蕪村