浅間いとしや

 トテ馬車というのは、トテトテと鳴るラッパを吹いて客を呼んだ馬車のこと、私の幼い頃はまだ街中を往来していました。
 母に連れられ、トテ馬車で浅間温泉に出かけるのがとてもたのしみでした。急いで走るでもない馬のカッポ、カッポの蹄の音は聞く耳に快く、あたりの風景が見る目をこやしてくれました。
 温泉宿におちつき、早速浴場に行くのですが、母にせがんで買って貰った浅間焼のどびんと亀さんを持って、とても嬉しかったことが今でも思い出されます。
 天慶二年というと、約一千年前になりますが、この地の豪族犬飼半左衛門の尉が発見したものだと言い伝えられ「犬飼の御湯」とも、「信濃の国」で歌われる「筑摩の湯」はここだという説もあるとか。
 慶長年間、松本城主石川玄蕃頭光長がここに別邸を設け入浴場とし、それで御殿の湯と呼ぶようになったとか。
 善光寺参詣の団体は、帰りに浅間温泉に立ち寄ることがきまっていまして、旅館の案内人が標識の小幟をかざして団体客を引き連れてゆく行列がよく通りました。バスやハイヤーに乗らないで、みんなテクテク徒歩で行くのです。
 それが松本の風景になっていた頃が、ほんとうになつかしまれます。
 戦争がすんでしばらくしたとき、ある職場グループの機関雑誌の文芸欄に、短歌、俳句、川柳が掲載され、その選者たちの座談会が浅間温泉で開かれたことがありました。
 遠くからわざわざ短歌の木俣修、俳句の加藤楸邨が見え、私は川柳だったのでご一緒になりました。選者を囲んでなごやかな座談会には、投稿者の熱心さ、信州人の情操、風土と慣習などが取り交わされ激励に合わせて向上進歩に向けられたい要望が出ました。
 懇親会になると、これまた違った雰囲気で、私は修の著書、楸邨の著書にそれぞれ署名していただき、そこでまた親近感を更に深めました。
 浅間小唄をお二人とももう知っておられ、
  女鳥羽河原じゃ かじかが啼くが
    わたしゃ 別れにゃ 湯場で泣く
 楸邨は「この歌詞が特によい」と褒め、一緒になって唄いました。夫人とご同伴で旅のひとときを殊のほか味わっておられるお様子でした。浅間小唄は野口雨情作詞、中山晋平作曲です。