さくら

 戦国時代、駿河の今川と相模の北条両氏は、甲信二国を領有する武田信玄と戦っていましたが、これを苦しめてやろうと塩の輸送を断ちました。これを聞いて信玄の好敵手、越後の上杉謙信は「多くの庶民こそ暮らしにお困りだろう。わしが争うのは弓矢にあって、決して塩ではない」――そういって親切にも塩を送りこんでくれました。
 松本に着いたのが永禄十一年正月十一日。これにちなんで塩市、のち飴市に変わり、今日にうけ継がれている行事です。その塩俵を積んだ牛をつないだという石が、今は本町と伊勢町との街角にあり、これを「牛のつなぎ石」と呼んでいます。
 それから三十年ほどのちのことですが、牛ではなくて今度は馬をつないだ逸話が生まれました。
 加藤清正といえば豊臣・徳川時代の武将。朝鮮トラ退治でも有名ですが、江戸から肥後へ帰国の途中、松本城石川康長に立ち寄りました。このとき康長は二頭の名馬を清正に見せて、「よい方の馬を土産にして下さい」といいました。清正は考えて、悪い方の馬を残して行けば大事な馬にキズがつくだろうと。そこで「二頭とも持って帰りたい」と正直に答えました。
 そのとき贈られた馬二頭を桜の木につないだことから「駒つなぎ桜」というようになり、松本城本丸庭園の北東の位置にあるのがそれです。清正当時の桜から三、四代目が、現在のシダレザクラだそうです。
 梅や桃や杏などみな大陸から渡って来たのに、桜は純国産であるためか、花といえば桜にきめつけられます。
  敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花
 本居宣長のこの歌はなんと日本人の国民性にしっくり合っていることか、そうお思いの方があろうかと思います。
  奈良七重七堂伽藍八重桜   芭蕉
 これはヤエザクラです。
 桜の名所というと古くから吉野山があります。
  歌書よりも軍書にかなし吉野山   支考
 歌書に花の名所として、多く詠われている吉野山よりも、『太平記』などの軍書に南朝の義臣が悲しいつらい心で籠った吉野山の方があわれだなあ、身にしみる、というのです。珍しく無季ですが、支考の吟で最も名高い俳句。
 北安曇郡美麻村の「静の桜」は、源義経を追う愛人静御前が奥州と大塩と間違えて通ったときの伝説。イヌザクラ。