恩師

 陽春の四月は、どの学校も入学式です。私は大正五年に父に連れられ、制帽をかぶって尋常小学校松本市立田町部の校門をくぐりました。六つ違いの姉は、松本高女で、姉さんぶって面倒を見てくれたっけ。
 羽織、袴でした。いまのように洋服ではなく、足袋を履いてかしこまったあどけない顔を、ふっと思い出そうとしても覚つかなく、六十有余年の昔の夢のようにも感じます。
 入った校庭の右側寄りに、日本全土を模した築地がしつらえてあり、海とおぼしきあたりには一面に水がたたえられていました。季節によってはアヤメが紫の色も鮮やかに咲き揃いました。
 その庭園の西隣が体操場でありまして、雨の降ったときなどは、ここで号令一下、オイチニ、オイチニと手を振り、足を振って賑やかなものでした。
 巡回講演の柴田何某が来ると、全校生徒はこの体操場に集まり、蒙古帰りの自慢ばなしをききました。面白おかしく、異国の動静を伝えてくれ、ヤンヤの喝采が会場をどよめかせました。
 みずから蒙古地方の俗語といって、一節ごとに区切って復唱し、私たちに懇切に教えてくれました。
  イーゼンプ イーワンプ イーイデ
   イーワン マンニーホ
  ソツコーセンデル
   テンメンドン
といった節回しでしたが、いまも覚えていて口ずさむことがあります。
 二年生になったら、いまの日本銀行松本支店のところにあった柳町部に転校、その後、三年生、四年生、五年生を送りました。鈴木正斎先生、新井元也先生が受け持ちでした。
 教育熱心で、とてもきびしかった反面、慈愛に満ちた薫育ぶりは私たちの幼な心をふるわせ、瞼のうらに今もなつかしく浮かんできます。
 六年生になったら逆戻り、一年生のときの田町部ときまりました。ここでは諏訪中学校を卒業したばかりの代用教員の山崎茂登美先生の若々しい教鞭が、のちのちまでも回想のなかで、強い印象をきざみつけてくれました。この年に筑摩鉄道が松本と島々の間に開通します。
 卒業以来、五十年振りの同級会を昭和四十七年十月に開催、遠く鹿児島、東京、高崎、名古屋の友が馳せ参じました。「きょうが卒業後初めて」という声もありました。山崎先生の銀髪に思い思いの感慨を共にして、ご長寿を祈るまなざしは、どの友の顔にもうかがわれたのです。