浮田一螵


 私の家に二枚折り屏風がある。落款はない。対になるべきもう二枚の方に署名があるのか、それはわかりませんが、正月風景です。猿廻し、懸想文売りなどの風俗画。父が語るには、作者は浮田一螵であると。
 自分の名前をあえて出さずに秘していたのではないか、というのです。その筋の目からのがれようとする気持ちがあったのだろう、と父はいい添えました。
 この一螵は松本に来ています。宮村町の神官某が京都へ出ていた頃、非常に親交を重ねて、松本に帰ってからも手紙を差し上げ、是非こちらへ遊歴するようすすめました。天保十四年に息子の松庵を連れて、木曽路の紅葉見物がてら、松本を訪れています。
 一螵は京都の人、名は可為(よしため)、土佐派の画家、田中訥言に絵を学んだといいます。
 旅装を解くと、一螵の画名を知って彼の画を所望する者のなかに、松本の大名主、屋号を堤屋という近藤茂左衛門がいました。代々醸造薬種商を営む老舗で、国学・歌道に通じているところから、一螵とは肝胆相照らす親しさとなりました。そしてここにも逗留しています。
 茂左衛門は飛脚問屋でもあり、商売と風雅の道に交際も広く、江戸の水戸邸へ御用達をつとめ、そのため水戸斉昭とも昵懇の間柄でした。
 その弟に、久保田信右衛門がいます。一螵はこの人とも懇意になり、奇しくも兄弟と交わることによって、のち一螵の運命も影響を受けます。
 嘉永五年、一螵は松本に再びやって来たとき、久保田信右衛門は江戸へ去っていなかったのです。主君逝きあと家政が乱れ、しばしば直言したが容れられず、遂に自由を求めて江戸へ立ち、名を山本貞一郎と改めました。
 幕末の頃ですから物情騒然、国の前途を憂い天下の志士と交わるようになった兄弟は、東奔西走、京都に上りました。そのとき、貞一郎は江戸の書家砂村六次と変名、茂左衛門は六次の従僕に装ったのでした。
 貞一郎は長い旅路の疲労で心身ともにやつれ果て、旅舎で病を養っていたのを見兼ね、年来の知己の面倒を見るのは今こそと、一螵は木屋町三条上ル十一屋源兵衛の貸室を世話してやりました。
 あの安政の大獄連座する一螵なる人物に、松本の近藤、山本兄弟はかかわり合いがあったことになります。