彼岸入り

 立春大吉といっても、暦のうえのことで、冬の長い信濃ではまだまだ寒い日がつづきます。それがいつとなく、蕗(ふき)の薹(とう)が出始め、ものみな青みがかり、やがて花のほころびを見るようになります。
 「彼岸だな、春ももう近いな」そう思います。やっと来た春、待ちかねた春なのです。「暑さ寒さも彼岸まで」とはよくいったもので、長かった冬から解放される三月の季節、見るものすべてがいきいきと芽生えてくるように思われ、それが美しい育ちとなって見る目にもあざやかです。
 ここまで来れば大丈夫、からだのうえでも、こころがまえのうえでも、さすが彼岸に近づくとシャンとします。彼岸は春分の日をはさんで、前後七日間。生死の苦しみにあえぐ此岸。悟りの明るさに達する態を彼岸と呼ぶのであります。
 神道に求めると、日岸、昼夜の長短なき日の中の岸を指しています。そして仏事と同じように、うやうやしく祖霊に拝礼をつくします。この日は、信心深く祖先への供養、祭礼に、ひたすら合掌をささげます。遠く御霊の安らけさ、うつし身の息災を心にこめて祈るのです。
   彼 岸●
  「ひがんといふものを見たか」「これ、おのしはとんだことをいふ男だ」「イヤイヤたしかに見た」「それならどんなものだ」「なんだか知らぬが、庭がむくむくするから、真木(まき)を持って飛び降りたら、おふくろが、これこれひがんだぞ、ひがんだぞ」  (春刻一笑・安永七年)
 「彼岸には殺生をしてはならない」といわれていましたから、庭のモグラが出たとき、それを捕えようとしたら、「彼岸だからあやめてはいけないぞ」とたしなめられたのを「彼岸」にかぶせた話です。また「彼岸には魚類を食べてはならない」といったものであります。
 落語の「犬の引導鐘」は、上方落語でよくやります。彼岸の七日間に無縁仏に供養するために、引導鐘をつくときいた男が、自分もあとからその鐘をつきたいと思っています。だれのためかと聞くと、死んだ犬のクロの供養だという。「くわんといったがこの世の別れ」と犬の鳴き声に引っ掛け、お寺の坊さんに引導をついてもらう話です。ウオンという鐘の音が、ききどころとしてウナらせます。
 お彼岸にボタ餅をこしらえ、こころをこめて霊前に供える行事が、いまも続いております。