活動写真

 これはと思うような映画(その頃は活動写真)も、むかしはなかなか見る機会がなかった、というのは大正時代、学校ではよほどでない限り映画をみせませんでした。たまたま小学校五、六年生のころ、上土町通りの電気館に引率されて「噫、松本訓導」という教育活動写真を見に行った記憶があります。
 それは東京井之頭あたりだったでしょうか、水に溺れた生徒を担任の先生が助けたまではよかったのですが、自分は溺れて殉職する実話を映画化したものでした。
 片端町通りの松本座はもともと劇場として、舞台を設けて演劇を上演していました。とくに学校の推薦で全国を巡回している駒田好洋の率いる活動写真が興行されることがありました。年に数回、小学生の私たちは大威張りで観たものです。威儀を正した好洋が、これから上映される筋書を前口演して、私たちを期待と興奮にかりたててくれました。
 「噫無情」とか「巌窟王」といった外国の名作が多かったと思います。無論トーキーではなく、無声映画活動弁士が雄弁をふるったものです。なかなか興味深く人気を呼び、いつも満員の盛況でした。
 深志公園の小高いところにあるキナパークという活動写真館が、松本では映画館の始まりであったと思います。館主は西条重一といい、ちょっと小太りで、チョビ髭の興行主らしい風格がありました。入場する入口に、奥さんがいて愛嬌を振りまいていました。
 映写機はたった一台で、一巻終わるとピリピリッと笛が鳴ります。次の巻をとりつける間、映画は中断して会場は真っ暗になり、観客はそれが当然のように、次の展開まで我慢強く待っていました。キナパークはたしか明治四十四年に開館したと聞いています。
 電気館は遅れて大正六年に開館しています。特に目玉の松っちゃんという愛称のある尾上松之助が、チャンバラ映画で人気の大スターでした。主役の弁士は松本猿之助といい、松之助の役はいつもこの人が担当しました。端役の分はほかの弁士一人でいくたりかの役を受け持ち、声色を変えてやりこなしたものです。キナパークの弁士では、館野東洋が有名でした。