菊池寛来たる

 松本市厚生文化会館で講演など聴きに行くとき、すぐ目につくのが句碑。
  山高く水清くして風光る   荘子
 平林荘子の家は、松本市東町通りのどっしりした土蔵造り。俳誌『つる草』を主宰して地方俳壇の育成につとめ、多くの同好者に親しまれました。
 「山高く」「水清くして」は、山国の風景をあらわし、「風光る」でしめくくり、眼前にただよう季節感がひろがってゆきます。
 厚生文化会館が出来る前は、この位置に松本市公会堂がありました。玄関を入ると畳敷きの大広間があり、そこで講演会や集会が開催され、賑やかでした。
 正面と左右は大広間にふさわしい大きな横額が掲げられ、絵画のほかに書家の揮毫されたものがひときわ目を引きました。日下部鳴鶴あたりだったでしょうか、雄勁な筆勢は堂々として、大広間を圧するほどでした。
 昭和六、七年頃、当時人気作家で名声嘖々たる菊池寛の講演があり、押すな押すなの盛況で、聴衆者が定刻前からひしめき合ったものです。
 紹介されて演壇に起った寛は、冒頭こういいました。「各地に招きを受けて出かけるが、臭い便所を通って案内されたのは松本が初めてだ」と呟き、苦虫を噛んだような不機嫌な顔つきで、私たちをにらめつけました。主催者が、うっかり便所のある通路に導いたのが、疳にさわったのでしょう。こちらが叱られているみたいでした。
 『父帰る』『恩讐の彼方に』『藤十郎の恋』など名作をつぎつぎ発表、これが好評なので、それを書いたご本人を見る好奇と期待が大きかっただけにこの光景は衝撃的にうつりました。
 昭和二十三年に逝くなり、三月六日がその忌日に当たります。
 吉川英治も来ました。瞼をパチパチしきりに動かし、それでいて微笑をたたえ、ある女性の生い立ちと気概を諄々と語って魅了しました。
 その吉川英治久米正雄が若い時の話をした内容が忘れられません。久米が顔を赤らめて「僕の学生のころは、友達に妹がいると、一応その少女に恋愛してみることになっていたよ」すると吉川は目をしばたたせながら相づちを打ち「わかるね。ぼくは少女と話していると、やっぱり少女とおんなじ動悸を打ったものだよ」(戸板康二『ちょっといい話』)
 久米正雄は長野県生まれ、俳号は三汀。