猫の恋

 猫が一貫目になれば祝ってやらねばならない――といういい習わしが、松本地方にはあります。つまり油断がならないからです。丁重に祝ってやると、猫はどこかに行って、長く姿を隠すものだとされていました。
 長患いをしている寝床のまわりに猫が来て、なかなかしつこく離れない。どうしたのだろうか。全くいやな猫、変な猫だ。快癒したらどこかへ捨てに行こうと思っていたのですが、いよいよ全快となって、その猫を風呂敷に包んで捨てて来ると、それっきり猫は戻って来なかったという話があります。
 何としたことか、この頃手拭が紛失するので不思議に思っていると、猫がそっと口にくわえて出てゆくのを見たので、大声をあげたら、それっきり飛び出して戻って来なかったそうです。
  化けるなら手拭かさん猫の恋   一茶
    化ねこ●
  手拭のなくなるのを不思議に思ひ、気をつけてみれば、裏の空地にて猫ども集まり、踊りををどる。さてこそとうかがひみるに、てんでに手拭を頭へ乗せて踊る。しまひに、三毛猫みなの手拭を集めて戻る。あとよりいづこの猫ぞとしたひみるに、髪ゆひ床へはいる。   (珍話楽牽頭・明和九年)
 猫が浮かれているさまを小気味よくユーモアたっぷりに描いています。見境いもなく浮かれ猫は、二月の寒月の冴えた夜など、けたたましく鳴き立てる恋の姿ともなってあらわれます。
 雨風におびえず、人を怖れず、ろくに家にも落ちつかず、夜となく昼となくさまよい歩き、食事もとらないで、幾日か全く家を留守にしたあげく、げっそりして帰って来ます。
 これが俳句の季語にある「猫の恋」のすさまじさですが、思いようによれば、ちょっぴりしおらしさもあるにはあるものです。
  恋猫の泥に尾を曳くやつれかな   蓼洲
 三味線には猫の皮がよく使われるのですが、いつでもよいというわけにはいかず、恋に狂う時期では鞣(なめし)にしても、薄い綺麗な三味線の皮にはちと不向きだそうです。猫のからだが傷だらけになるからでしょうか。
 なりふりかまわず、はた目もない恋の道とか、もの狂おしい夜の啼き声、昼のけだるい誘いの声こそ、二月の季節にふさわしいもの憂さが感じられてまいります。