スケート今昔

 松本城の内濠は、むかし松本中学校内にありました。冬になると濠は結氷しますので、体操の時間にはスケートのできる生徒が盛んに滑走したものです。スケートを好まない連中は、先生の号令一下、寒冷もものかは吐く息も荒く濠の外側を駆け回りました。
 外濠というと松本神社(旧五社)の南に面した濠ですが、ここは松本高女の生徒がスケートに興じました。南濠は男生徒、北濠は女生徒、それぞれわが天地を隔てて、男女席を同じうしなかったのですが、そこにはおのずから性別感情がわだかまっていて、なんとなく垣を張りめぐらせた恰好でした。
 見たいものを見ない振りをするテレが、つい内気な性情に閉じこめて、それが当時の青春の偽らない姿だったかも知れません。
 秋季運動会が行われる当日さえ、時間を割いてわざわざ相手方の女生徒の活躍振りを見にゆくのには相当決心が必要だったし、軟派のレッテルのうしろめたさを味わせたのでした。
 スケートといっても、いまの靴スケートではなく、下駄スケート。下駄の裏にかすがいのような鉄の刃をつけたもので、しっかり真田紐で足首を結えてほどけないようにし、コツン、コツンと氷を突っかけ、履き具合をためしたうえで滑るのです。
 爽快さは滑るもの自身の心の持ちようで、うまく滑るつもりでも馴れないものは、ついヨロヨロ、スッテンコロリンと転倒し、われ知らず悲鳴をあげるていたらく。
 濠全体が氷で張りついているわけでなく、中心からそれた氷面は薄氷で勢いよく滑ったあまり、氷が割れて冷たい濠の中に落ち込んでしまうこともあります。
 冷たい氷のなかから這い出すために、手をかけたところがまた薄い氷のため、自然と氷が欠けてゆくものですから、穴の周りがどんどん大きくなり、あわてます。
 やっと助けられたとなると、焚火で暖めてやり、新しく着替えて元通りの服装になり、みんなヤレヤレ。
 スケートといえば明治三十八年、湖のある諏訪地方で初めて始まり、二、三年後、諏訪湖一周大会が開かれました。これがわが国で行われたスケート大会のさきがけといわれます。
 大正十四年、松本市岡田の六助リンクで第一回全日本学生選手権大会を開きました。北海道と並んでスケートの名選手を出した長野県は、今も美鈴湖、軽井沢などのリンクが全国的に知られています。