松本弁
遠く宮崎県に出張したとき、事業所の休憩室で話していると、そのなかに割りこんだ人が「あなたは松本のひとですね」とだしぬけにいうのです。「どうしてわかるのですか?」「それ、その松本弁ですよ」と、押し返すように、ニコニコしながら顔を向けてきましたので、私の友人はあっけにとられたそうです。
このひとは嘱託医でこの地に移住していたのですが、かつて住み慣れ、親しんだ松本弁が、ピンと懐かしく頭にひらめいた、といっていました。
ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく 啄木
訛というものはその土地独特なものです。方言もそうですが、松本あたりに転任になった人たちが、いちばん早く覚えてゆくのは、ズラ言葉だといわれています。「試験が近づいて頭が痛いズラ」などと使います。松本ばかりだと思っていたら、静岡県の民謡ちゃっきり節に「蛙が鳴くんで雨ズラよ」と唄われています。この語は室町時代の史記抄に「北面シテ来ウカズラ」と見えていますが、語源は古いようです。
いちゃついてへぇ忘れてく弁当箱 きよし
この川柳にはふたつの方言が入っています。ひとつは「いちゃついて」です。「あわてふためく」の意味で、もうひとつは「へぇ」で、「もはや」「すでに」の意味をもっております。寝坊したのか、朝飯もそこそこに遅刻しまいと飛び出したはいいが、ついつい弁当箱を忘れてしまったという句ですが、東京地方で「いちゃつく」というと、「嫌だわ」とニヤニヤはずかしがります。というのは、あわてるではなくて、男女がデレデレするさまをいうからです。
日曜大工使われ てきねえ棚作り 好英
「てきねえ」は「てきない」で、疲れたことですが、十返舎一九の弥次喜多道中記『続膝栗毛八篇』には、松本あたりがでてきます。ここに「ヤレヤレてきないおもひでかりて来た」とあります。
その頃、文化年間に松本で発行された『田舎樽』という川柳句集に、
水車おんじょうごとのお大将
水車がいちばんの「おんじょうこきだ」というのです。「おんじょう」は「音声」の転化、ちょっとのことを大袈裟にぶつぶついうあのゴットン、ゴットンで、それが続きます。
同級会 はあるか振りの手を握り 民郎