炭俵

 今は駅から歩くか、少し遠いからクルマで飛ばそうか、という時代です。終戦直後の松本駅前にはタクシーの姿は見あたらず、急用の時はウロウロするばかりでした。
 その当時は木炭車というのが走っており、よほど顔がきかないと乗れません。一番困ったのは、苦労して復員してくる兵士を出迎えるときや、海外から引き揚げてくる人たちと久し振りに出会うときでした。仕方がないものですから、あらかじめ炭一俵を工面して求めておき、タクシー会社に交渉して、これを燃料として走らせるのです。
 バスも急な坂のところへ来ると、ニッチもサッチも動かず、「みなさまご迷惑でしょうが、お降り願います」といわれ、エッチラ、ホッチラ後押しして手助けしました。
 いい具合に動いたと思ったら、またエンコ。「燃料を詰め足すのでしばらく休ませていただきます」といわれ、じっと我慢の子で待ちました。
 戦争前は自由に手に入りましたが、 その頃は馬の背に幾俵も積み込んで炭焼きのオッサンがよく「炭はいらんかね」と一軒、一軒売りあるきました。「いらないよ」といっても、嫌な顔もせず、またのん気そうに街のなかを買い手をさがすため売り声をかけていく。
  オッサマ何処だい 山辺の入りだい
     道理で顔中真黒だ
というはやし文句もあったほどでした。
 山辺とか錦部、小倉とか、そういう山の人たちが馬をひいて売りにきたのです。うまく売りさばくと、一杯屋で馬肉鍋をつついて、ご機嫌よく手綱を振り振りして帰ってゆく姿を思い出します。
 今のように、スイッチひとつでパッとつく電気コタツの便利さ簡便さとくらべて、夢のようです。でも寒いときの一番のご馳走は、炬燵であることに変わりありません。どこへでも移動できるいまの電気コタツは、以前の置き炬燵に似てもいます。
  四角でも炬燵は野暮のものでなし   (柳多留 三八)
 信州人らしく炬燵文化を賑わすこともあれば、情愛をとりもつ粋なアッタカイ雰囲気をかもし出してもくれます。