能狂言

 旧松本裁判所入口北の片隅に井戸があって、水が湧き出ていたのですが、いまは取り壊されてあとかたもございません。このあたりから石の地蔵菩薩が出現されたということで、地名を地蔵清水とした、といわれます。
 この地蔵清水の北へ突き当たったところに、カトリック教会があります。明治十一年に創立、地蔵清水に移った明治二十一年以来、今日に至っています。ここの宣教師だったノエル・ペリーはフランス人で、二十三年から二十五年まで松本にいて、のち甲府に移り、また二十七年二月再び松本に帰って二十九年までおりました。
 このペリーは、とりわけ能楽に深い関心をもっていまして、外国人としてはこの道の研究の恩人とも評価された人です。若くして音楽に秀で、ピアノ、オルガン、和声法に精通し、早くから海外宣教師になろうと志したということです。
 能楽室町時代にすでに存在した所作事、一種の楽劇で大変もてはやされたのですが、明治の初め、一時衰微したときがありました。
 それを復活した動機は、明治維新の中心人物であった岩倉具視が外国でオペラを見聞し、故国の能楽を思い出したことからだそうです。ペリーは明治三十五年に外国宣教師を脱会し、日本研究に専念することを決心しました。翌年、グルックの「オルファイス」が上演され、日本歌劇史上記念すべき企てとされています。この演出指導に当たったのが三十八歳のペリーでした。
 ペリーはこう言っています。「ギリシャのタラゴジャに似ていて、合唱、舞踊、仮面などを使うところに類似点があります。これを観ることによって、日本人の昔を見るよすがにもなり、能というものの文学性、特に能の詩に心を打たれます」(古川久『欧米人の能楽研究』)
 旧松本高校時代、古川久教授の肝入りにより寮記念祭に能を紹介すると共に狂言野村万蔵が来賓、数番の至芸を観せてくれました。出演中一時間停電したが、すこしも驚かず朗々と吟ずる演者のきびしさとしたたかさに感嘆しました。