七月

 金沢の安川久留美を知っていた阪田風谷は、数年松本に滞在したことがあり、交友関係の深いところから、井上剣花坊もちょいちょい訪ねて来た。
 早速川柳座談会を催す筈だったが雨天で集まる者も少なく、まだ当地に川柳作家がいなかったため講演では川柳と狂歌の区別、誰でも知っていそうな古川柳の註釈などで、篆刻家の富田五守が金沢弁で、二三質問をしただけ。
 俳人の和佐田鈍刀の肝入りで十五六幅頒布することが出来た。それも柳人の手に渡ったのではなく俳人の手に頒たれたのだから皮肉である。
 松本に川柳誌が発行される気運の情報を聞きつけ、風谷は率先して句会の出席、しなの川柳社創刊記念会にも顔を出している。
 奥さんの実家が松本にあったため、その縁で東京から移住したのである。一週間に一度は必ずと言ってよいほど、私宅を訪ねよもやまの話を承った。あの頃、評判のエジソンバンドを頭につけて。
 柳樽寺和尚は日本新聞記者として、風谷はやまと新聞の駆け出しとして相知った。その後、日本大学の法律雑誌を主宰するにあたり、川柳を担当してくれたのがこの剣花坊だった。創作は柳川春葉、俳句は星野麦人、スケッチは竹久夢二の陣容。
 岡本綺堂岡鬼太郎、栗島狭衣などの毎日派文士劇に属していたが、のち脱して栗島狭衣と共に東京の明治座で旗挙げ興行を催したとき、大切りの喜劇に無踊を演ろうと持ち掛けたところ、あまり賛成する者がなかったのに、剣花坊だけが助け舟を出してくれた。
 徳川夢声とはごく懇意で、風谷は東京から田舎に遁れていることを記事にしたのを見たので大変感慨深そうだった。
 風谷は教育講談を演じて巧みで松本に来てから長野放送局で「般若の面」放送。また松本芸術協会にも招かれて語った。私たちの句会でも二、三度聴かせて貰った。のち昭和十三年、志して各地陸軍病院に芸術慰問、第二放送で「尊き汗」放送。思い切って東上したのだった。
 昭和三十三年三月、八十歳で逝くなった。思い出深い人である。