八月

△雑誌で連載していたのが、このほど単行本になったことを知って富岡多恵子「当世凡人伝」を注文したが、すぐにはなく、一ヶ月経ってから手に入った。そこらに暮らしているような人物が次ぎ次ぎに登場して来る。どれも隙だらけで、キチンと襟を正した、しかつめらしいのでないのが嬉しい。
△本の腰巻と称する引っかけてある広告によると「平凡な人間のさまざまな生活の断片を掬い、すぐれた技法で確かな人生の手ざわりを描く」とある。一点の非のうちどころのない息のつまるような紳士淑女の紋切型に縁の切れた男女の、ゆくりなくも繰りひろげる葛藤図で、生きる姿にふてぶてしさがのぞく。私の求める川柳のあり方に合っている人たちへの共感をひきつけてくれるのである。
△題材ということのほかに、句を作る態度のヘンな孤絶とか断絶とか、われひとり潔しとする風態を私はあまり好まないで今日まで来たが、そうした気持が自然に私の凡性をはぐくんで呉れ、いらいらし、まごつき、悔やんで見たり、あわてて見たり、あとになってやっと気がつく口惜しさ。でも自分の句は自分を生かすものだと、気張ってはいるのである。
△この人の「壺中庵異聞」という著書は、私とかかわり合いのあった人物をモデルにしている。装幀はすごくギラギラした原色で塗たくり、顔をさらす主人公の意図を隈なくあらわしたような印象を受け、文もそうだが、この装幀も私をたぎらせた。
平井蒼太である。文には横川蒼太となっているが、私が麻生路郎師の「川柳雑誌」を昭和の初めに手にしたとき、そこで知った一人の無頼にも似た、文筆業者を自称した平井蒼太であった。滋賀県に住み、毎日というほど彼は私に秘めた手紙をよこした。宋朝体の好きな彼の筆蹟はこれにあやかった。
△昭和八年、「麻尼亜」「雑学」を出刊したが、私のところで印刷した。そんな思い出をよみがえらせてくれた「壺中庵異聞」の著者に、私とのいきさつを書き送ったら、丁寧に返事が届いた。私の長女と同じ年頃、わが娘の世帯疲れとは違った世界にいるひとりの女性の慎しいしたたかさがしみた。