七月

▽南側の障壁にすがるようにしてうちの庭がある。細長く、ひっそりとしている。わざわざこしらえた小さな池も、工場を奥に移すことで、通り路が狭い関係で、とりつぶしてしまった。可愛い金魚や鯉はそれぞれ知人に分けてあげたが、みんな丈夫でいることだろうと思い、しばらく赤と黒の彩のイメージが頭から離れなかった。去ってゆくものへの愛惜である。
▽池があった頃、池の水面にすれすれにのしかかるようにした恰好でつつじを植えて、季節になると美しい花を咲かせたが、いまはいささか邪魔なので位置を変えた。わたしも入れてといわんばかりに露草の紫の花が唇を触れたがる。
あじさいが大きくなって、たわわに綺麗な花を見せびらかす。はかない生命であっても、その生命をいっぱい華やいだ顔にまとめて咲き誇るのだ。朝の目覚めに飛び込んでくるこの彩のあざやかさに今日の出発を励まされるのである苦しくとも、何とも言わず、私もけろりっとしよう。
▽縁起をかつぐことが好きな妻が植木屋からひいらぎを買い求めてもう数年になる。さわると痛いひいらぎの葉っぱが、あくまで厚っぽく、そして青い。どこか熱っぽい肌を感じさせる樹だ。ひいらぎは魔除けだという。嫌なことはない方がよいからひいらぎよ頼む。
▽春が来たことを告げるのは桜が常法だが、ありふれているからちょつとひねったつもりで、こてまりを貰って来た。季節を知っていて白い、こまちゃくれた花をたくさん咲かすのだ。垂れたような恰好で見事な眺めである。散るときはいさぎよく、しばらく消えない雪の華が地面にひろがる。
▽秋海棠は淡紅色のつぶらな瞳をかがやかしながら可憐な姿態をくねらすのである。ベコニヤが秋海棠に負けまいと、ちょつと背伸びしたつもりで佇っている。花はまだつけないが、鶏頭がずんずん大きく背高になりそうだから、赤い小さな冠をいただいて妍を競うのも間近かだろう。
▽鉢の朝顔が思い出したように咲いてくれる。大気汚染も知らぬげに心を洗う紫のいろ。自分の齢の上り坂に気付きながらも、快い季節の刺戟だ。明日も咲くだろう。