7:私の句の批評

 芥川芥子男君が、私の句の
    われを繼ぐ子と寢る星のふるなかに
を評されたことばに次の如くあります。
 それは或る夜である。夜空は滿天の星で如何にも星が降つて来さうな夜空だ。この星空の下に自己の偉大な五体は、時の流れにしつかり耐へて血は沸つて波打つてゐる。國民の中に自分もゐるのだ。自分は今晝の疲労を癒すべく夜の深い床に落ちつかうとしてゐる。それは明日への増産に対する休眠なのだ。ふと自分の側に寢てゐる小さな子供に氣が付く。この子供は自分の正系の血を繼いで次代の日本を背負つてゆかなければならない子供なのだ。どうだらう、まるでこの小さな五体が、何十年もすると立派な五体となり、立派な理論もはくやうになるであらう。人間とは面白いものである。しかし恐ろしいものである。
 この小さな五体が、日本の國民の中にどれ程ゐるのであらうか。丁度夜空の星のまたゝきにも似て、数へることも出来やしない。いまこの子供は一人だが、あのキラ〱光る星の一群に入りこめば、この子供でさへ、あの通り光るのだ、いやげんに光つてゐる。しかも自分の血を繼いでゐる子供なのだ。一呼吸その一呼吸の中には自分の血が吐かれてゐるのだ。そこには父親の慈愛が溢れて、この子供はそれに包まれて安らかな眠りに落ちてゐるのだ。何事もないやうな夜空の星にも似たかのやうな風に……
 この句はかう解釋すると實に作者の線の弱さの中に何と日本人としての血の濃さをもつた魂がある。その魂は非常な速度で我々を呼び掛ける。韻律が非常によい。この感色は作家の性格と思想の堅固さを語つてゐる。
 この句には理窟はない。しかし現實の世界と夢幻の世界との區別はしてゐる。感性に対する知性の働きを覗くことが出来る。われを繼ぐ子と寢る、は現實を表し、句後は夢幻である。で、解剖してゆくとこの作家は現實に生きながら自己の理想へ創造を建設せんとする未来への聯想があるのだ。限りなき活動を認めるのだ。創造へ創造へとゆく道程を認めるのだ。知性的な句である。感性に反應した知性の句であることを認めねばならない。「川柳雑誌」第二十巻第十号所載